その朝、主上の御座所は、にわかに、東三条第
の方へ、行幸を布令ふれ だされた。 仮内裏かりだいり
の高松殿でん は、刻々に、狭隘きょうあい
になってくるし、地の利も悪し ── と評議で決まった結果、お移りの渡御を仰いだものである。 天皇後白河には、御引直衣おんひきのうし
のお姿で、腰輿ようよ にめされ、神璽しんじ
、宝剣も、輿こし のうちへ、お持ちになった。 おん供の人びとには
── 関白忠通、内府実能、左衛門督かみ
基実、右衛門督公能きみよし 、頭とうの
中将公親、左中将光忠、蔵人くろうどの
右少弁資長、右少将実定、少納言入道信西しんぜい
、春宮学士とうぐうのがくし 俊憲としのり
、治部大輔雅頼、大外記だいげき
師業もろなり などを、はじめとして、歴々の公卿朝臣だけでも、おびただしい列をなした。 武臣では、義朝、清盛の二家が、なんといっても主力であった。次いでは、兵庫頭頼政よりまさ
など、故法皇が遺書に指名しておかれたという十一将と、その縁に従う諸卿やら諸国の武者は、この都が、初めて洛内に持ったほどな数である。 東三条の第てい
は、皇居であり、また三軍の陣営だった。 兵の配置、諸門の守り、また兵糧のととのえなどが終わったころ、十一日の日も、またたくまに、暮れかけていた。 大将義朝は、ひとり内殿の階下まで、呼ばれた。殿上でも軍議があったが、埒らち
はあかない。そこで、少納言信西を通じて、彼の意見を、問うことになったのである。 義朝は、折おり
烏帽子えぼし に、赤地にしきの直垂ひたたれ
、上に、ゆうべ父為義から贈られた、源太げんた
産衣うぶぎ の鎧を着ていた。 階きざはし
に向かい、畏かしこ まって、彼は言う。 「自分のおそれているのは、新院方たる正面の敵勢よりも、奈良、吉野、十津河とつかわ
などの法師軍が、頼長公の誘いに応じて、数千人、宇治へ向かって動いているという情報のあることです。── これは藤氏とうし
の長者と、春日神社との、深い関係からみても、ありうることで、宇治の入道も頼長公も、その後詰うしろまき
を、大きな恃たの みとして、作戦しておられることは、疑いありません」 「なるほど」 信西は、玉座から、一段下の、大床に座っていたが、こううなずいて、御簾ぎょれん
のうちの御気色みけしき を仰いだ。いならぶ諸卿も、義朝の言に、ひとしく、傾聴している面おも
もちであった。 |