〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-T 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (二) ──
ほ う げ ん の 巻

2013/03/08 (金)  しょうえつ しょう (三)

その朝、主上の御座所は、にわかに、東三条第ひがしさんじょうてい の方へ、行幸を布令ふれ だされた。
仮内裏かりだいり の高松殿でん は、刻々に、狭隘きょうあい になってくるし、地の利も悪し ── と評議で決まった結果、お移りの渡御を仰いだものである。
天皇後白河には、御引直衣おんひきのうし のお姿で、腰輿ようよ にめされ、神璽しんじ 、宝剣も、輿こし のうちへ、お持ちになった。
おん供の人びとには ──
関白忠通、内府実能、左衛門かみ 基実、右衛門督公能きみよしとうの 中将公親、左中将光忠、蔵人くろうどの 右少弁資長、右少将実定、少納言入道信西しんぜい春宮学士とうぐうのがくし 俊憲としのり 、治部大輔雅頼、大外記だいげき 師業もろなり などを、はじめとして、歴々の公卿朝臣だけでも、おびただしい列をなした。
武臣では、義朝、清盛の二家が、なんといっても主力であった。次いでは、兵庫頭頼政よりまさ など、故法皇が遺書に指名しておかれたという十一将と、その縁に従う諸卿やら諸国の武者は、この都が、初めて洛内に持ったほどな数である。
東三条のてい は、皇居であり、また三軍の陣営だった。
兵の配置、諸門の守り、また兵糧のととのえなどが終わったころ、十一日の日も、またたくまに、暮れかけていた。
大将義朝は、ひとり内殿の階下まで、呼ばれた。殿上でも軍議があったが、らち はあかない。そこで、少納言信西を通じて、彼の意見を、問うことになったのである。
義朝は、おり 烏帽子えぼし に、赤地にしきの直垂ひたたれ 、上に、ゆうべ父為義から贈られた、源太げんた 産衣うぶぎ の鎧を着ていた。
きざはし に向かい、かしこ まって、彼は言う。
「自分のおそれているのは、新院方たる正面の敵勢よりも、奈良、吉野、十津河とつかわ などの法師軍が、頼長公の誘いに応じて、数千人、宇治へ向かって動いているという情報のあることです。── これは藤氏とうし の長者と、春日神社との、深い関係からみても、ありうることで、宇治の入道も頼長公も、その後詰うしろまき を、大きなたの みとして、作戦しておられることは、疑いありません」
「なるほど」
信西は、玉座から、一段下の、大床に座っていたが、こううなずいて、御簾ぎょれん のうちの御気色みけしき を仰いだ。いならぶ諸卿も、義朝の言に、ひとしく、傾聴しているおも もちであった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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