それはともあれ。──
せっかくの大物と思った二両の牛車も、通しほかなくやり過ごして、基盛
とその部下たちは、やや手さびしい心地だった。まだ、大和路やまとじ
の夕陽ゆうひ は赤かったが、馬に草を飼わせ、兵にも、兵糧をとらせれいた。 するとまたかなたから、馬上十騎、徒歩かち
立ち三十人余り、隊をなして、急ぎ足に来るのが見えた。それっと、総立ちに、立ち向って、まず基盛が、馬をすすめ、 「待ち給え、いずれの国より、いずれへ参る人びとか」 と、ただした。 ひたと、十騎の武者を始め、あとの兵も、かなたに止まった。その中から、ざっとした黒革の鎧よろい
に、直兜ひたかぶと をかぶった、眉面まゆづら
の逞たくま しい一壮年武者が、遠く一礼して、 「これは、この程、京中物騒と承り、仔細しさい
を知らんものと、上洛つかまつる近国の者です。── 道を阻はば
み給うは、何のためにて候うか」 と、反問した。 基盛も、声を張って、それに言う。 「一院崩御の後、ゆえなき武士どもあまた、入洛なす由、叡聞えいぶん
に及び、関々せきぜき を固めよとの命を蒙こうむ
って候う者なり。── 内裏へまいる人なれば、宣旨のお使いと、連れ立って通り給え。さもなくば、得え
こそ遠さじ。── かく申すは、桓武帝の末葉、刑部忠盛が孫、清盛の次男、安芸判官基盛、生年十七歳」 名乗るを聞くと、かなたでも、 「自分といえ、型の如き系図は、なきにしも非ずです。清和天皇の末、大和守頼親が後胤こういん
、源ノ親弘が子にて、宇野七朗親治ちかはる
という者。大和の国奥郡おくごおり
に久しく住んで、まだ恥を人中にさらしたことはない。── このたび、左大臣殿の召しによって、新院の味方に馳は
せ参ずる所存と、明白に申す。源氏は、二人の主君を取ることなど、知らぬ者ばかりゆえ、たとえ宣旨があろうと、内裏方に応じる者どもではありませんぞ」 と、いい払った。 あきらかに、自己の素性と、主張を宣言し、敵対を、告げたものである。とたんに、基盛の前に、基盛の兵が、弓をそろえて、立ちふさがった。 弦鳴と、矢うなりが、一せいに起こった。矢はかなたからも、烈しく、飛んで来る。 しかし、矢数やかず
の寡多は、兵数に比例する。── 当然、少数の方から、白兵戦を挑んで来た。宇野七朗以下、先頭の十騎が、まず、駒こま
のたてがみに、兜かぶと を打ち伏せ、太刀、長柄を小わきに、驀進ばくしん
して来たのである。かきたてる荒駒のひづめから、ばくばくと、畑の土や、草ぼこりが舞い、おりふし、夕雲の妖あや
しい光彩も手伝って、十騎の影は、自然な煙幕をもった。── と、もう基盛の手勢を蹴け
散らしていた。つづいて来たかれの歩兵も、奥郡の山ざむらいだけあって、みな勇猛だった。── 基盛はさんざんに敗れ、一たん手勢を、法性寺の北、一ノ橋あたりまで引き下げて、頽勢たいせい
を立て直した。 |