〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-T 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (二) ──
ほ う げ ん の 巻

2013/03/08 (金) 宇 治 の 関 (三)

それはともあれ。── せっかくの大物と思った二両の牛車も、通しほかなくやり過ごして、基盛もともり とその部下たちは、やや手さびしい心地だった。まだ、大和路やまとじ夕陽ゆうひ は赤かったが、馬に草を飼わせ、兵にも、兵糧をとらせれいた。
するとまたかなたから、馬上十騎、徒歩かち 立ち三十人余り、隊をなして、急ぎ足に来るのが見えた。それっと、総立ちに、立ち向って、まず基盛が、馬をすすめ、
「待ち給え、いずれの国より、いずれへ参る人びとか」
と、ただした。
ひたと、十騎の武者を始め、あとの兵も、かなたに止まった。その中から、ざっとした黒革のよろい に、直兜ひたかぶと をかぶった、眉面まゆづらたくま しい一壮年武者が、遠く一礼して、
「これは、この程、京中物騒と承り、仔細しさい を知らんものと、上洛つかまつる近国の者です。── 道をはば み給うは、何のためにて候うか」
と、反問した。
基盛も、声を張って、それに言う。
「一院崩御の後、ゆえなき武士どもあまた、入洛なす由、叡聞えいぶん に及び、関々せきぜき を固めよとの命をこうむ って候う者なり。── 内裏へまいる人なれば、宣旨のお使いと、連れ立って通り給え。さもなくば、 こそ遠さじ。── かく申すは、桓武帝の末葉、刑部忠盛が孫、清盛の次男、安芸判官基盛、生年十七歳」
名乗るを聞くと、かなたでも、
「自分といえ、型の如き系図は、なきにしも非ずです。清和天皇の末、大和守頼親が後胤こういん 、源ノ親弘が子にて、宇野七朗親治ちかはる という者。大和の国奥郡おくごおり に久しく住んで、まだ恥を人中にさらしたことはない。── このたび、左大臣殿の召しによって、新院の味方に せ参ずる所存と、明白に申す。源氏は、二人の主君を取ることなど、知らぬ者ばかりゆえ、たとえ宣旨があろうと、内裏方に応じる者どもではありませんぞ」
と、いい払った。
あきらかに、自己の素性と、主張を宣言し、敵対を、告げたものである。とたんに、基盛の前に、基盛の兵が、弓をそろえて、立ちふさがった。
弦鳴と、矢うなりが、一せいに起こった。矢はかなたからも、烈しく、飛んで来る。
しかし、矢数やかず の寡多は、兵数に比例する。── 当然、少数の方から、白兵戦を挑んで来た。宇野七朗以下、先頭の十騎が、まず、こま のたてがみに、かぶと を打ち伏せ、太刀、長柄を小わきに、驀進ばくしん して来たのである。かきたてる荒駒のひづめから、ばくばくと、畑の土や、草ぼこりが舞い、おりふし、夕雲のあや しい光彩も手伝って、十騎の影は、自然な煙幕をもった。── と、もう基盛の手勢を 散らしていた。つづいて来たかれの歩兵も、奥郡の山ざむらいだけあって、みな勇猛だった。── 基盛はさんざんに敗れ、一たん手勢を、法性寺の北、一ノ橋あたりまで引き下げて、頽勢たいせい を立て直した。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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