〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-T 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (二) ──
九 重 の 巻

2013/03/06 (水) げん うぶ (四)

為義の家人けにん放免頭ほうめんがしら の花沢孫六は、その晩、夜もふけた頃、六条屋敷に、帰って来た。そして、為義に、常盤のこと、二人の和子があること、今夜のうちに、避難するらしい様子であるらしいことなど、探って来たとおりのことを、復命していた。
刻々と、深夜のしじまは、邸内の井水の音にも、きざまれているころなのに、なお別室には、新院の近習左京大夫教長が、すわっているし、奥の広床も、細殿も、息子たちの棟の方でも、煌々こうこう と、明りのさしていない所はない。
うまや には、馬糧桶まぐさおけ の音がひびくし、武具倉を出入りする郎党たちの跫音あしおと にも、なんらかの事態の近づきが聞こえて来る。── で孫六は、なお思い沈んでいる主人のまゆ へむかって、単刀直入に、 いてみた。
「御出馬でござりましょうか。いよいよ、御決断あって──」
すると、為義は、顔の底から、草汁のようなさび しい色を、にじみ出した。しかし、意志を描くしわ は、大きく、笑おうとしているのである。二つの錯雑した感情は、突然、声になって、天上までひびいた。
「きめたよ! 孫六。もう、いかんわ。若いやつらには、分別は、二の次なのだ。理も非も、実は、念にはない。ひたぶるに、さかんな五体を、試してみたいだけのことだ。院のお使い、教長卿の前で、せがれどもがその欲望を、ぬちまけおった。おさ えるすべもあるものかは。・・・・望むがままにせいと言ってしまうたわさ。あはははは」
「では御息子方のみ、新院のお味方へ」
「いや、おれひとり、六十路むそじ の身を、ここに取り残されて、どうするものか。また、教長卿も、うまく申された。── とまれ、どうあれ、院宣を拝して、いながら、固辞し奉る非礼やある、ひとたびは、きざはしもとし に伏し、上皇の御意におこたえするのが、道ではないかと」
「や、道理です。それには、参られましたな」
「決めたよ、そこでな、弓矢の家の宿命だ。この旋風つむじ の外へは、のが れようもなし、遁しもしまい。── ときに、また今、そちの報せで、義朝の覚悟のほどもよく分った。退けといっても、内裏を退くまい。来いと言っても、新院方には参るまい」
「おそらくは・・・・と、手前も、さように存じまする」
「よかろう、あれは、あれで、一つの生き方を、目がけたものだ。六人の弟どもとは、母も異なるせいか、もともと、ひとつたば ねにはかからぬ男よ。ほうっておこう。── 孫六、宝蔵から、伝来の鎧八領、のこらず取り出して来い」
ここ幾日かの妄想もうそう も、今はこうと、思い断ったふうに見える。為義は、生涯の最期を、同時にこの夜、はら にすえた。
左京大夫教長のいる室のひさし の間に、六人の息子を呼び並べて、新院の方へのお味方を誓い、家重代の鎧を、一領ずつ、分け与えた。
ひとり、八朗為朝には、体に合う鎧がなかった。どれもこれも、彼の体躯たいく には、小さいのである。
残った内から、為朝は、薄金をえらんで、身に着込んだ。── そして、なお余った源太げんた 産衣うぶぎ の鎧と、膝丸の鎧とを、
「これは、代々、家の嫡男ちゃくなん に伝えることになっている。夜の明けぬまに、下野守義朝の許へ、届けてやれ」
と、花沢孫六を使いとして、馬の背に持たせてやった。

"── 明ケヌレバ、敵チナル子ノ許ヘ、遣はしける、親ノ心ゾ、哀レナル"
と、 「保元物語」 は書いている。人間、父子の情、理性の悩みも、これほどなのに、なお、戦わねばならなくなるとは、いったい、どういう地上の約束なのであろうか。はたまた、宇宙の一環に、べつに眼にも見えない魔の作用でもあるものだろうか。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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