〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-T 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (二) ──
九 重 の 巻

2013/03/05 (火) げん うぶ (二)

果たして、鳥羽の崩御とともに、後白河を立てた美福門院や忠通の内裏方と、新院崇徳を擁する頼長、その他、彼の与類とは、ま二つに、割れた。
── が、呈子は、今日まで、自分の身近に仕えている常盤と義朝との関係は、女院へも、忠通へも、おくびにすら、聞かせたことはない。
たちどころに、常盤の恋が破られるか、ここを追われるか、いずれにせよ、彼女を悲しませることは、分かり過ぎていた。
常盤も、呈子のやさしい心ひとつで、今やおそろしい世の風浪からかば われている身であることを、よく知っていた。弱い、うら若い、女の手ひとつに、恋人が珠とも でている男の子二人を、守り育てるには、余りに、恐ろしいような世情であった。── 義朝と会うことすら、日ましに、人目がはばかられて、待つ宵も、別れる後朝きぬぎぬ も、おたがいに、白刃を踏むような思いをしなければならなかった。
が、その恐さ、世間のけわしさが、さいな めば苛むほど、逢いたさが、つのった。
ある宵は、常盤の老母の家で、郎党に見張りをさせて、つかの間の、甘い涙に濡れたり、ある夜の後朝きぬぎぬ には、九条院の榎門を、おどり越えて、有明けの月をあとに、外へ飛び降りる恋人の影を見送ったり、恋も、戦乱に がる世上とともに、何か、熱病に かれたような、生命いのち がけのものになっていた。
「泣くな・・・・。よしや、合戦になろうが、そなたを、捨てはしない。どうして、この無心な、可愛い和子らを、敵方にまわせよう」
ある夜、義朝は笑っていった。彼女のほお に濡れついている黒髪を、一すじ一すじ、指で、美しい耳のうしろへ いてやりながら、その耳へ、ささやいた。
「たれにもいうな。・・・・もし、戦いとなれば、おれは、ためらいなく、武者所の兵をこぞって、内裏の守護につく。左大臣家に、一片のお義理はあるが、下野守は、朝廷の任命だし、おれはまた、彼らの私兵ではないからな。それに悪左府は、末たのもしくない人だ。たとえ、父為義や、弟どもが、何と言おうが、おれは朝廷の武臣として、新院へは、お味方せぬ。・・・・のい常盤。それだけを、誓っておいたら、何も、泣くにはあたるまいが。そなたの仕える御方へも、美福門院にも、また一座ノ君 (忠通) へも、身のひけることはないはずだ。むしろ、心で誇れ。わが良人つま の義朝こそは、内裏方のお味方随一なれと」
義朝の両の手は、彼女の顔を、持つように抱えた。
にこと、ほほ笑む唇を、唇でふさがれ、まつ毛をふさぎながら、うれし涙がとまらない常盤であった。ふところに、子は眠っていたが、若い父母は、嬰児みどりご がちっそくしそうになるのも忘れて、蒸れる乳の香と涙におぼれて、一ときの官能を、世音の外のものにしていた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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