〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-T 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (二) ──
九 重 の 巻

2013/03/03 (日) 白 旗 の 下 (四)

新院の近習きんじゅ 、教長は、
「わたくしも、じつにつら い」
と、為義に会うと、まず、言った。
「かかる辛いお使いに立ったことは、長い殿上生活のもありません。が、院宣です。四たびの勅を奉じて、最後の、御返答を、うかがいに来た。──為義どの、どうでしょう、御決意は」
「何度、申しあぐるも同じです。どうぞ、上皇にも、頼長公にも、為義は、はや耄碌もうろく の体に見ゆると、仰っしゃておいてください」
「いや、お気持は、わたくしには、分かっておる。が、頼長公は、例のお声で叱咤しった されます。── 為義に、何の否やがあろうや。年来、源家げんけ庇護ひご して来たのは、何のためか。六条源氏の一類が、よも、この に至って、宇治の忠実、頼長を、裏切りもすまい。また、新院の御敗北を、願っているわけでもあるまい。かように、お耳もかす気色けしき ではありません」
「── と、仰せられても、何分にも、自分は老年、せがれどもとて、お役に立つほどな者は」
「いや、いや。左衛門尉為義のお味方ありと、聞こえれば、よいのです。御参陣あるまでは、軍議も開かじと、白河北殿の院の諸勢は、ひたすら、御出馬を待っておる」
「ああ、身は、ひとつ」
と為義は答える言葉がなくなって、つぶやいた。そして、教長と、果てなく、うつろな眼を、見あわせてしまった。
この左京大夫教長は、さきに、兄徳大寺内大臣実能の許へ、今度のことで相談に行ったことがある。新院のおん企みを、切に、おいさ めすべき彼なのであった。ところが、四囲の勢いに引きずられ、諫奏かんそう どころか、かえって、人を渦中に巻き込む使いに立ってしまったのである。この矛盾を、教長は、みずから心で責めている、為義に、蹶起けっき を迫りながら、じつは自分自身、禍乱の中から逃げ出したい気持で一ぱいだった。
「オ。・・・・実は昨夜、夢を見ましてな」
為義は、ふいに言い出した。
使者が、復命しやすいように、口実を、思いついたものらしい。
「え。夢を・・・・ですか」
「されば、わが家に伝わるよろい がある。月数つきかず日数ひかず源太げんた 産衣うぶぎ 、八龍、沢瀉おもだか薄金うすがね楯無たてなし膝丸ひざまる の八領です。── それが、狂風に吹かれて、ぼろきれ のように、空へ飛び散ったと見て めました。実に悪夢です。いよいよ、この際は慎むべきだと、今日もせがれどもと、話していたところでした。どうか、このたびの軍議は、余人におはか りください。いくさ には、いささかの凶も む。為義には、凶の影があります」
「はて、武将のあなたが、夢見や物忌みをおそれるのは、少しおかしい。さような御返辞では、帰れぬが」
「弱りましたなあ、ほかに、申しあぐべきお答えも持たぬ」
「自分も、今宵こそは、空しく、立帰りもできぬ。お悩みは察せられるが、夜がしら むまでも、よい御決意を承らぬうちは・・・・」
気がつくと、二人は、もう宵に入ってからの久しい間を、燈火ともしび もなく、真っ暗な中で、対座していたのであった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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