父と息子たちの間で、かなり烈しい論争が、交された。 累代、弓矢の家でありながら、この非常を、よそごとに見てなどいたら、世上は、われらを、何と嗤
うだろう。それはまた、いうべくして、行われないことにも極まっている。諸国の源氏、一族郎党なども、そんな中立的態度に、甘んじようはずもない。 たとえ、自分のみは、中立を称とな
えても、兵火は遠慮会釈なく拡ひろ
がってゆくにきまっている。六条堀川だけを、戦場外にして戦ってくれればよいが、だれがそんな保証を与えよう。こっちは、弓矢を捨てたと叫んでも、血狂った両軍の干戈かんか
や炎は、何の仮借もするわけはない。── むしろ、新院方かれは、信義なき似而非え せ
武者よと、討ちかかられ、また、内裏方からも、宣旨を奉ぜぬ臆病おくびょう
者よと、憎まれ、侮られ、あげくの果ては、双方にはさみ撃たれて、袋だたきの目にあわないとも限らない。 もし、そうなった挙句あげく
、にわかに、いずれへお味方と叫んでみたところで、もう遅いであろう。部下の統一は取れっこないし、ちりぢり、思い思いに、去就を選んでも、それは、降参人と変るものではないからだ。 ──
というのが、息子たち六人の、父に譲らない、先見であった。 「ウム、なるほど、いかにも」 為義はいちいちうなずいた。そういう悲惨な帰着に、彼も目をふさいでいるわけではないのだ。苦悩の影を、眉まゆ
にも頬ほお にも、深くして、言うのである。 「だが、思うてもみよ。新院方に加担せんか、禁門に弓を射、我が子義朝をも、敵としなければならぬ。また、内裏方へ参るなら、主家すじの頼長公を、叛賊と呼び、あの薄命な崇徳の君
(新院) をも、われらの戈ほこ
や炎で追い参らせねばなるまいが。いずれに味方するも、所詮しょせん
、地獄の邏卒らそつ の役だ。祖父に八幡太郎義家を持ち、弓矢の家のあとを継いで、恥を取らなかった為義だが、このたびばかりは、弓矢も捨てたくなった。ままになるなら、出家して隠れたい。・・・・まあ、もう一夜待て、もう一度、とくと思案してみよう」 父の憔悴しょうすい
は眼にもわかる。息子たちも、それ以上は責めかねた。不満ながらも、その場は、一度、退さ
がった。 同日、かさねて、内裏から召しがあった。下野守義朝からも、使いが、書状をもたらした。 勅に対しては、 (老来、何事にも、ものうく、昨今も持病に臥ふ
しおりますゆえ) と、息子たちをもって、拝辞を述べさせ、義朝の手紙には、 「返辞はない」 と、いって返した。しかし、後で読むと、義朝の書面も、なかなか、あわれで、為義の老いの眼を、涙で、いっぱいにさせた。 義朝は義朝で、自分の立場を訴えている。 朝廷に二帝はありえず、新院御謀叛の理由はどうであろうと、自分は、後白河天皇を、御一人と仰ぎ、禁門守護の職責をつくすしか、ほかに日は知りません、ということ。 そしてまた、こうも書いている。 ──
父上も弟どもも、一刻も早く、内裏方へ御参加ありたいのです。私情、小義、いろいろ、御決断をにぶらすものは多いでしょうが、何は断ち切っても、大道につくべきでしょう。同族、骨肉が、血みどろに、戦いあうなど、思うだに、悲泣さてます。もし、新院方の牽制けんせい
などで、お立ち出がままならぬなれば、深夜、義朝自身、辻つじ
をかためて、お迎えに出もしましょう。父上の老躯ろうく
、人間の晩節、二つながら、不肖の子義朝も、今は心配でたまりません。どうか、超えがたい一線を踏み切って、禁門軍の上に、父上の御旗を、見せてください。父上の子どもらは、それによって心を一つにし、また、この時の大事に立って、どんなに、生きの歓びを温め合えるかわかりますまい・・・・。 綿々と、情理をこめた文章である。 やはり我が子だ。まぎれもなく、彼も自分の分身だと思う。為義の考えは、大きく傾きかけた。ところが、その日の夕方、左京大夫教長の車が、また、門に見えた。事変以来、教長が、ここへ臨むのは、これで四度目だった。
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