〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-T 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (二) ──
九 重 の 巻

2013/03/03 (日) 白 旗 の 下 (三)

父と息子たちの間で、かなり烈しい論争が、交された。
累代、弓矢の家でありながら、この非常を、よそごとに見てなどいたら、世上は、われらを、何とわら うだろう。それはまた、いうべくして、行われないことにも極まっている。諸国の源氏、一族郎党なども、そんな中立的態度に、甘んじようはずもない。
たとえ、自分のみは、中立をとな えても、兵火は遠慮会釈なくひろ がってゆくにきまっている。六条堀川だけを、戦場外にして戦ってくれればよいが、だれがそんな保証を与えよう。こっちは、弓矢を捨てたと叫んでも、血狂った両軍の干戈かんか や炎は、何の仮借もするわけはない。── むしろ、新院方かれは、信義なき似而非え せ 武者よと、討ちかかられ、また、内裏方からも、宣旨を奉ぜぬ臆病おくびょう 者よと、憎まれ、侮られ、あげくの果ては、双方にはさみ撃たれて、袋だたきの目にあわないとも限らない。
もし、そうなった挙句あげく 、にわかに、いずれへお味方と叫んでみたところで、もう遅いであろう。部下の統一は取れっこないし、ちりぢり、思い思いに、去就を選んでも、それは、降参人と変るものではないからだ。
── というのが、息子たち六人の、父に譲らない、先見であった。
「ウム、なるほど、いかにも」
為義はいちいちうなずいた。そういう悲惨な帰着に、彼も目をふさいでいるわけではないのだ。苦悩の影を、まゆ にもほお にも、深くして、言うのである。
「だが、思うてもみよ。新院方に加担せんか、禁門に弓を射、我が子義朝をも、敵としなければならぬ。また、内裏方へ参るなら、主家すじの頼長公を、叛賊と呼び、あの薄命な崇徳の君 (新院) をも、われらのほこ や炎で追い参らせねばなるまいが。いずれに味方するも、所詮しょせん 、地獄の邏卒らそつ の役だ。祖父に八幡太郎義家を持ち、弓矢の家のあとを継いで、恥を取らなかった為義だが、このたびばかりは、弓矢も捨てたくなった。ままになるなら、出家して隠れたい。・・・・まあ、もう一夜待て、もう一度、とくと思案してみよう」
父の憔悴しょうすい は眼にもわかる。息子たちも、それ以上は責めかねた。不満ながらも、その場は、一度、退 がった。
同日、かさねて、内裏から召しがあった。下野守義朝からも、使いが、書状をもたらした。
勅に対しては、
(老来、何事にも、ものうく、昨今も持病に しおりますゆえ)
と、息子たちをもって、拝辞を述べさせ、義朝の手紙には、
「返辞はない」
と、いって返した。しかし、後で読むと、義朝の書面も、なかなか、あわれで、為義の老いの眼を、涙で、いっぱいにさせた。
義朝は義朝で、自分の立場を訴えている。
朝廷に二帝はありえず、新院御謀叛の理由はどうであろうと、自分は、後白河天皇を、御一人と仰ぎ、禁門守護の職責をつくすしか、ほかに日は知りません、ということ。
そしてまた、こうも書いている。
── 父上も弟どもも、一刻も早く、内裏方へ御参加ありたいのです。私情、小義、いろいろ、御決断をにぶらすものは多いでしょうが、何は断ち切っても、大道につくべきでしょう。同族、骨肉が、血みどろに、戦いあうなど、思うだに、悲泣さてます。もし、新院方の牽制けんせい などで、お立ち出がままならぬなれば、深夜、義朝自身、つじ をかためて、お迎えに出もしましょう。父上の老躯ろうく 、人間の晩節、二つながら、不肖の子義朝も、今は心配でたまりません。どうか、超えがたい一線を踏み切って、禁門軍の上に、父上の御旗を、見せてください。父上の子どもらは、それによって心を一つにし、また、この時の大事に立って、どんなに、生きの歓びを温め合えるかわかりますまい・・・・。
綿々と、情理をこめた文章である。
やはり我が子だ。まぎれもなく、彼も自分の分身だと思う。為義の考えは、大きく傾きかけた。ところが、その日の夕方、左京大夫教長の車が、また、門に見えた。事変以来、教長が、ここへ臨むのは、これで四度目だった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
Next