ついに人間には、誰の身にも、生涯の大難といったような場合が、一度や二度は、なくてはすまないものかも知れない。 六条堀川の源為義も、 「年、六十にもなって、かかる苦境に立ち迷おうとは」 と、この数日は、嘆息ばかりしていた。急に、鬢
の白さをさえ、増したように見える。 多年、恩顧のある左大臣家 ── 悪左府の頼長からは、まっ先に、 (即刻、新院へ、馳はせ
せ参ぜよ) と、使いが、来ていた。 宇治の入道忠実からも、たびたびの密使をもって、 (一門を率いて、新院へお味方するように) と、矢のような、催促である。 そもそも、左府頼長が、新院を立てて、武力を思うに至った肚はら
の底には、為義一族の源氏武者は、元来、わが家の私兵であり、自分の自由意志に動くものという考えが多分にあった。彼を主力とし、奈良の大衆や、吉野法師の僧兵に加えて、自領の地方武者などを加算すればと
── そこに断然不敗の強気を持ったものに違いない。 源氏と、藤氏の長者との、累代の関係からも、当然、為義は、その催促を拒み得ない立場にある。 ところが、同時に、天皇の宣旨せんじ
も、為義に降って、 (義朝とともに、内裏を守護し、反徒はんと
を討ち平らげよ) という、お召しである。朝命も重し、頼長との関係も一朝のものではない。 彼の苦悩は、はた目に見るのも、気の毒な程だった。 「父上、お力になりますまいが、せめてわれらだけにでも、御心底を割ってください。わたくしども六人は、肚を決めました。あくまでも、父上と、去就きょしゅう
を一つにして、離れまいと」 彼の息子たちは、父の一室へつめかけた。もどかしいのだ。父為義が、今度ばかりは、どうかしたのではないかと疑っている血気な眼まな
ざしばかりである。 四郎左衛門頼賢よりかた
、五郎掃部助かもんのすけ 頼仲、加茂六郎為宗、七朗為成。鎮西八朗為朝。九郎為仲。 こう六人のほかに、長兄の下野守義朝だけが、ここには、いない。 その義朝に対して、弟どもはみな、不平を鳴らし合った。
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