その日には。 忠盛は、もう死期を覚って、兄弟たちへ、それぞれ遺物分けをした。 清盛へは、相伝
の、唐皮の鎧よろい と、小烏こがらす
の太刀を。 そして、間の弟たちをこえて、当腹とうふく
の子 ── 有子の生んだ五男の頼盛へ、抜丸ぬけまる
を与えたのであった。 いうまでもなく、有子への、気づかいからである。どこまでも、妻には、気を使う父。 しかし、有子は、貞淑であったし、七人の男の子は、みな枕頭ちんとう
に侍し、一門眷族けんぞく も、今出川の邸に詰めて、忠盛の死は、人生の終わりとして、不足のないものであった。 父の死後、だいぶ経ってから、清盛は、ふと、人なき一室で、例の、かたみの古扇をひらいてみた。 |
──
旅の道のべに、御くるまを止め給ひける折、 白河の君の、汝な
が宿やど が零ぬ
余か 子ご
はと、問はせ給ひけるに 芋の子のつるも いつしか這は
ひ出でぬ こう書いてあるのは、たしかに、父の筆跡ひっせき
である。けれど、下の句は、墨つきも、筆ぐせも、別人の書であった。 ただもりそだて 家垣いへがき
とせよ |
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清盛は、これを、じじの家貞に見せた。木工助家貞は、古扇を拝して、あきらかに、下の句は、さきの白河院の御宸筆ごしんぴつ
せす、と答えた。── ということは、清盛が、忠盛の実の子ではなく、白河の御子だということになる。が、清盛は、うれしくも何ともなかった。この古扇から、なんの愛情も心に響いては来なかった。懐疑は、解けたが、かえって、淡い悔いが残った。やはり、忠盛の子でありたかった。扇は、そのとき以後、手にもせず、何かの筥の底にしまって、そのまま、しまい忘れていた。
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十一日の朝。まだ未明のころ。 六波羅を出た清盛以下の一族は、朝の陽ひ
の出とともに、高松殿の里内裏へ、はいった。 参陣の名簿をささげ、お味方をちかい、ただちに、内裏の守護についた。 先着の軍勢には、下野守義朝があり、兵庫頭頼政などがある。 源平混成軍であった。赤い旗、白い旗が、一つの陣営に、仲よく、林立していた。 そして、その日の夕方には、もう、兵火がこの都を焼きたてていたのであった。 |