〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-T 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (二) ──
九 重 の 巻

2013/03/03 (日)  ぞう (三)

夜の明けぬうちに、輿に乗って、有子は、清水寺へ、祈願に通った。良人おっと の病が重くなってから、雪にも雨にも、一日とて、欠かしていない。
今朝も。── 彼女の輿が、霜の道へ出て行った。
見すましていた経盛は、その後ですぐ、ひとりの女を、ほの暗い妻戸の蔭から、父の病間へ、手をとって、導き入れた。
・・・・泣き声が、もれていた。まぎれもない、先の母、祗園女御の声である。
清盛は、ひと 、へだてたひさし の間に、寝ていたが、めんめんと、嗚咽おえつ やすすり泣きが、つづくので、我を忘れて、寝床から、はい出していた。
「・・・・ひと目、会えてよかった。思えば、そなたも、不しあわせな女ではあったよ。子らは皆、大きゅうなっている。そのことに心残りはない。ただ、そなただけだ。心がかりは。・・・・そなたが、みじめな末路を彷徨さまよ うては、 き白河の君に、申し訳がない。蔭ながら、年月、心にわずろ うていたのはそれ一つじゃ。余生を、幸せに送れよ・・・」
きれぎれであるが、病床の父の声だ。清盛は、なんのこったと、腹が立った。自分だけが、はぐらかされている気がした。死なんとする病人の言葉に、うそはあるまい。父は、ほんとうに、長の年月、 びていたのだろうか。あんなに、手をやいた不貞の妻に。子を捨てて出て行ったみだ らなわがまま女などに。
有子が戻っては ── という気遣いがうかがわれる。まもなく、また、経盛に、肩を抱かれて、祗園女御は、泣く泣く裏庭から帰って行くらしい。清盛は、あわてて、廊をまわり、柴垣しばがき のすきまから、母の姿を、のぞいた。
「ああ。 ・・・・お変わりになった。お年をよられて」
清盛も、そこでは、つい、泣いてしまった。
さしも、美しかった母も、その朝の姿は、そこらに霜枯れている草花と変りはなく、薄化粧はしていたが、皮膚も白っぽいばかりで、ほお にはたるみが見え、髪は、つや もなかった。
数えてみると、この母も、五十である。女の五十。いったい、今は、どうして暮しているのか。清盛は、父が、病床から彼女にいっていた通りな気持ちになって、経盛が、いたわるのを、垣の蔭から、感謝していた。
「さ。・・・・被衣かずき をお召しなさいませ。いつまでも、悲しんでおいでになって、お体でも煩うといけません。わたくしが、お門辺まで送ってゆきましょう。人目につかないように、どうか被衣を、目深に、おかず きください」
二人が、去るのを見送って、清盛は、父の病間へ来てすわった。そして、ややしばらくし、父の寝顔を、見守っていたが、ついに、思い切って、そっと言ってみた。
「父上。ご安心なさいましたか」
「・・・・・」 忠盛は、まぶた をひらいた。 「清盛か」
そして、また、無言がつづいた。
「そこの、手筥てばこ を ──」
と、やがて言う。
手筥の底から、一本の古扇をさぐり出し、黙って、清盛に与えた。遺物かたみ のつもりらしい。そして、
「疑うな。おまえは、まぎれもなく、白河の君の御子みこ だ。この扇の歌は、父が、白河上皇にお供して、旅の途中で、いただいたお遺物。これは、当然、おまえが持っておく物だ」

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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