夜の明けぬうちに、輿に乗って、有子は、清水寺へ、祈願に通った。良人
の病が重くなってから、雪にも雨にも、一日とて、欠かしていない。 今朝も。── 彼女の輿が、霜の道へ出て行った。 見すましていた経盛は、その後ですぐ、ひとりの女を、ほの暗い妻戸の蔭から、父の病間へ、手をとって、導き入れた。 ・・・・泣き声が、もれていた。まぎれもない、先の母、祗園女御の声である。 清盛は、ひと間ま
、へだてた廂ひさし の間に、寝ていたが、めんめんと、嗚咽おえつ
やすすり泣きが、つづくので、我を忘れて、寝床から、はい出していた。 「・・・・ひと目、会えてよかった。思えば、そなたも、不しあわせな女ではあったよ。子らは皆、大きゅうなっている。そのことに心残りはない。ただ、そなただけだ。心がかりは。・・・・そなたが、みじめな末路を彷徨さまよ
うては、亡な き白河の君に、申し訳がない。蔭ながら、年月、心に煩わずろ
うていたのはそれ一つじゃ。余生を、幸せに送れよ・・・」 きれぎれであるが、病床の父の声だ。清盛は、なんのこったと、腹が立った。自分だけが、はぐらかされている気がした。死なんとする病人の言葉に、うそはあるまい。父は、ほんとうに、長の年月、詫わ
びていたのだろうか。あんなに、手をやいた不貞の妻に。子を捨てて出て行った淫みだ
らなわがまま女などに。 有子が戻っては ── という気遣いがうかがわれる。まもなく、また、経盛に、肩を抱かれて、祗園女御は、泣く泣く裏庭から帰って行くらしい。清盛は、あわてて、廊をまわり、柴垣しばがき
のすきまから、母の姿を、のぞいた。 「ああ。 ・・・・お変わりになった。お年をよられて」 清盛も、そこでは、つい、泣いてしまった。 さしも、美しかった母も、その朝の姿は、そこらに霜枯れている草花と変りはなく、薄化粧はしていたが、皮膚も白っぽいばかりで、頬ほお
にはたるみが見え、髪は、艶つや
もなかった。 数えてみると、この母も、五十である。女の五十。いったい、今は、どうして暮しているのか。清盛は、父が、病床から彼女にいっていた通りな気持ちになって、経盛が、いたわるのを、垣の蔭から、感謝していた。 「さ。・・・・被衣かずき
をお召しなさいませ。いつまでも、悲しんでおいでになって、お体でも煩うといけません。わたくしが、お門辺まで送ってゆきましょう。人目につかないように、どうか被衣を、目深に、お被かず
きください」 二人が、去るのを見送って、清盛は、父の病間へ来てすわった。そして、ややしばらくし、父の寝顔を、見守っていたが、ついに、思い切って、そっと言ってみた。 「父上。ご安心なさいましたか」 「・・・・・」
忠盛は、瞼まぶた をひらいた。
「清盛か」 そして、また、無言がつづいた。 「そこの、手筥てばこ
を ──」 と、やがて言う。 手筥の底から、一本の古扇をさぐり出し、黙って、清盛に与えた。遺物かたみ
のつもりらしい。そして、 「疑うな。おまえは、まぎれもなく、白河の君の御子みこ
だ。この扇の歌は、父が、白河上皇にお供して、旅の途中で、いただいたお遺物。これは、当然、おまえが持っておく物だ」 |