忠盛の病
が篤あつ く、もう回復の望みも絶えたと分かると、次男の経盛は、涙ながらに兄に、せがんだ。 「兄者人あんじゃびと
。・・・・どうか、母上を、呼んであげてください。今生のお別れに、ひと目でも、お会わせしてあげて下さい」 「母?・・・・。母上とは、だれだ?」 清盛は、わざと言ったが、もちろん、分かりすぎている。 発病以来、父の枕まくら
もとには、貞淑な後添えの、有子が侍かしず
いているが、経盛がいうのは、もとよりその義母のことではない。── 自分たち四人の生みの親、祗園女御をいうのである。 経盛は、すぐ、めそめそする。むかしの洟はな
たらしではなし、もう任官もし、嫁ももらっているくせに、この弟は、いっかと、たくましくならないのだ。清盛は生みの母を思うと、今もってふしぎな狂おしさが血管を荒らしまわる。眼つきまで、すぐ変わってくるのである。 「おれたち、子どもらが、そう思ったところで、かんじんな御病中の父上が、どうお考えになっているか、分かるものか。もう、あんな母のことは、忘れろ、忘れてしまえ」 「忘れられません。・・・・」
と、経盛は、なお涙して言う。 「父上も、決して、お忘れになってはいません。・・・・義母が、枕もとにおられない時には、ふと、彼女あれ
もどうしているやらと、わたくしへ、おもらしになったことがあります」 「そうかなあ? ・・・・。 ほんとか、経盛」 「それは、そうでしょう。四人も子を生な
した、おん仲ですもの」 「それにしても、弱るではないか。今の義母はは
が、おいで遊ばすのに」 「毎朝、朝まだきには、御祈願の為に、清水寺へ、日詣ひもう
でされていますから、その間にでも」 「── と、いって、おまえは、先せん
の母が、近ごろ、何して、どこにいるのか、知っているのか。おれは以後、生きているのか死んだかも、聞いていないが」 「兄者人あんじゃびと
さえ、怒らなければ、明朝、ほの暗いうちに、わたくしが、そっと、御案内してまいります」 「おまえは、居所も、知っているのか。おりおり、会っていたのか、間には」 「・・・・・・」 「おいっ。黙っていては、分からぬよ。どこに、いるのだ。近くか、遠くか」 どうしても、清盛は、つい、激語になった。否定している母なのに、その母と経盛とが、年来、人目を忍んで、会っていたとわかると、嫉ねた
ましくなって、それに、以前のままな感情も、こぐらかり、拳こぶし
で、弟の泣き顔を、撲りつけたいような気持ちになる。 経盛は、べたと、両手をつかえて、その兄の形相ぎょうそう
へ、拝まんばかり、咽むせ んでいった。 「・・・・一生の、一生の、おねがいですっ。
あ、あん者人、お、お、おねがいです」 清盛は、かんで吐きすてるように、言った。 「勝手にしろ。おれは知らん。・・・・父上の、お気持次第だ」 |