〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-T 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (二) ──
九 重 の 巻

2013/03/03 (日)  ぞう (二)

忠盛のやまいあつ く、もう回復の望みも絶えたと分かると、次男の経盛は、涙ながらに兄に、せがんだ。
兄者人あんじゃびと 。・・・・どうか、母上を、呼んであげてください。今生のお別れに、ひと目でも、お会わせしてあげて下さい」
「母?・・・・。母上とは、だれだ?」
清盛は、わざと言ったが、もちろん、分かりすぎている。
発病以来、父のまくら もとには、貞淑な後添えの、有子がかしず いているが、経盛がいうのは、もとよりその義母のことではない。── 自分たち四人の生みの親、祗園女御をいうのである。
経盛は、すぐ、めそめそする。むかしのはな たらしではなし、もう任官もし、嫁ももらっているくせに、この弟は、いっかと、たくましくならないのだ。清盛は生みの母を思うと、今もってふしぎな狂おしさが血管を荒らしまわる。眼つきまで、すぐ変わってくるのである。
「おれたち、子どもらが、そう思ったところで、かんじんな御病中の父上が、どうお考えになっているか、分かるものか。もう、あんな母のことは、忘れろ、忘れてしまえ」
「忘れられません。・・・・」 と、経盛は、なお涙して言う。 「父上も、決して、お忘れになってはいません。・・・・義母が、枕もとにおられない時には、ふと、彼女あれ もどうしているやらと、わたくしへ、おもらしになったことがあります」
「そうかなあ? ・・・・。 ほんとか、経盛」
「それは、そうでしょう。四人も子を した、おん仲ですもの」
「それにしても、弱るではないか。今の義母はは が、おいで遊ばすのに」
「毎朝、朝まだきには、御祈願の為に、清水寺へ、日詣ひもう でされていますから、その間にでも」
「── と、いって、おまえは、せん の母が、近ごろ、何して、どこにいるのか、知っているのか。おれは以後、生きているのか死んだかも、聞いていないが」
兄者人あんじゃびと さえ、怒らなければ、明朝、ほの暗いうちに、わたくしが、そっと、御案内してまいります」
「おまえは、居所も、知っているのか。おりおり、会っていたのか、間には」
「・・・・・・」
「おいっ。黙っていては、分からぬよ。どこに、いるのだ。近くか、遠くか」
どうしても、清盛は、つい、激語になった。否定している母なのに、その母と経盛とが、年来、人目を忍んで、会っていたとわかると、ねた ましくなって、それに、以前のままな感情も、こぐらかり、こぶし で、弟の泣き顔を、撲りつけたいような気持ちになる。
経盛は、べたと、両手をつかえて、その兄の形相ぎょうそう へ、拝まんばかり、むせ んでいった。
「・・・・一生の、一生の、おねがいですっ。 あ、あん者人、お、お、おねがいです」
清盛は、かんで吐きすてるように、言った。
「勝手にしろ。おれは知らん。・・・・父上の、お気持次第だ」

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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