内裏方
── 後白河天皇に味方すべきか、また、新院方 ── 崇徳上皇に付くべきか、殿上も、武者一般も、この向背
に迷う者が、すべてであった。しかし清盛は、それに、迷いはない。 彼は、初めから、新院方に加担する気は、なかった。 新院の御謀反とは、実は、悪左府頼長の企謀にほかならないと、観破していたからだ。 頼長も、清盛に期待はかけていまいが、清盛も頼長に拠よ
って何も求めようとはしていな。もともと氷炭相容れぬ仲である。加うるに、昨今のうわさによれば、叔父の右馬助忠正は、まっさきに、新院の召しに応じたとも聞いている。 では、 内裏方へ味方かというに、それも、清盛はまだ、肚はら
を決めかねていた。 自分が起た
つか、起たないかは、ひとり六波羅在住の者ばかりでなく、各地の族党や、その家人けにん
郎党までの運命を、決定付ける。一歩を誤れば、何も知らない、無数の妻子老幼までを、地獄へ投げ入れることになる。 清盛は、そこに、迷う。 基盛だけを参陣させ、自身は、起たなくても、すむには、すむのだ。──
将来は知らず、ここのところは、観み
ておく、という手も、あるには、ある。 だが、いまを “時” だと、しきりにささやく野望の方が、理性を超こ
えた魅力であることも、争えなかった。 (機会は、二度と巡って来ない。いまが、開運の迎えではあるまいか ──) 彼は、この岐路に、思い出される一つの偶然事を持っていた。 それは、おととし、父忠盛の没した翌年のこと、伊勢の阿濃津あのつ
から船に乗って、紀州熊野へ詣もう
でる途中だった。大きな鱸すずき
が、清盛の乗っていた船のうちへ、跳と
びこんだのである。人びとは眼を見張って、騒いだ。 熊野案内の先達せんだち
は、手を打って、 「これは、吉瑞です。やがて安芸守殿が、宰相さいしょう
ともなり、平家御繁昌の兆きざ
しにちがいありません」 と、誇張していった。そして、むかし周の武王が、自分の船に、白魚はくぎょ
が躍り入ったのを大いに祀まつ
って、後に、天下を平定したという故事など、あげて、 「これなん、熊野権現の御利生ごりしょう
と覚えまする。さても、幸先よき殿にはおわす」 と、口を極めて、前途を祝した。 清盛は、迷信ぎらいである。日吉ひえ
山王の神輿に、矢を射たほどの男だが、しかし、こういわれると、信じてみたくなる。 父忠盛の病中にも、彼は、まわりの者から、不信心をせめられて、父の病気平癒のためには、我が
をまげて、衆僧に、大般若経だいはんにゃきょう
の写経を頼み、それを伯耆ほうき
の大山寺だいせんじ に納めて、祈願をこめたのも、つい去年のことである。 おりふし、亡父の冥福めいふく
を祈るため、熊野へ行く途中ではあったし、海路うなじ
の旅のつれづれも慰められ、この偶然を、心から喜んだ。 「よし、そんな吉兆の魚なら、おれ一人で食べては、果報に余る、おれが調理するから、みなも食え」 みずから庖丁ほうちょう
を把と って、鱸を料理した。家の子郎党らとともに、大いに杯をあげ、祝歌ほぎうた
を合唱し、舷ふなべり をたたいて、伊勢の海をさんざめかしたものだった。 ──だが、それ以来、べつに、幸運もない、むしろ、頼長の勢力下に、数年の不遇が続いただけだ。 (鱸すずき
の吉瑞は、どうしたことだろう。このたびのお召しが、熊野権現のそれならばだが?) 彼の観み
るところ、今度の乱は、天皇に抗する上皇の戦いとは称とな
えられているが、謀臣対謀臣の争覇そうは
、野望と野望との葛藤かっとう
である。決して、大儀を持つ戦ではない。── おれが横から野望を抱く。また何の不逞ふてい
であろうと、彼は思う。 野望といえ、彼には彼の目的も理想もあった。── 芋畑の芋の子のごとく殖ふ
えてゆく六波羅の眷族けんぞく
に、一門の長として、何らかの将来を開拓してやる生存の必要 ── 自然の勢いに迫られていたことと、もう一つは、貴族独占に代わる、地下人のための、地下人中心の政治を興すそれであった。 たれの場合も、出発は正しくて美しい。晩年の、太政入道清盛は、まるで、別人みたいな存在になったが、壮年の彼には、そんな理想もあったのである。 |