〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-T 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (二) ──
九 重 の 巻

2013/03/02 (土) 赤 旗 の 下 (四)

内裏方 ── 後白河天皇に味方すべきか、また、新院方 ── 崇徳上皇に付くべきか、殿上も、武者一般も、この向背こうはい に迷う者が、すべてであった。しかし清盛は、それに、迷いはない。
彼は、初めから、新院方に加担する気は、なかった。
新院の御謀反とは、実は、悪左府頼長の企謀にほかならないと、観破していたからだ。
頼長も、清盛に期待はかけていまいが、清盛も頼長に って何も求めようとはしていな。もともと氷炭相容れぬ仲である。加うるに、昨今のうわさによれば、叔父の右馬助忠正は、まっさきに、新院の召しに応じたとも聞いている。
では、
内裏方へ味方かというに、それも、清盛はまだ、はら を決めかねていた。
自分が つか、起たないかは、ひとり六波羅在住の者ばかりでなく、各地の族党や、その家人けにん 郎党までの運命を、決定付ける。一歩を誤れば、何も知らない、無数の妻子老幼までを、地獄へ投げ入れることになる。
清盛は、そこに、迷う。
基盛だけを参陣させ、自身は、起たなくても、すむには、すむのだ。── 将来は知らず、ここのところは、 ておく、という手も、あるには、ある。
だが、いまを “時” だと、しきりにささやく野望の方が、理性を えた魅力であることも、争えなかった。
(機会は、二度と巡って来ない。いまが、開運の迎えではあるまいか ──)
彼は、この岐路に、思い出される一つの偶然事を持っていた。
それは、おととし、父忠盛の没した翌年のこと、伊勢の阿濃津あのつ から船に乗って、紀州熊野へもう でる途中だった。大きなすずき が、清盛の乗っていた船のうちへ、 びこんだのである。人びとは眼を見張って、騒いだ。
熊野案内の先達せんだち は、手を打って、
「これは、吉瑞です。やがて安芸守殿が、宰相さいしょう ともなり、平家御繁昌のきざ しにちがいありません」
と、誇張していった。そして、むかし周の武王が、自分の船に、白魚はくぎょ が躍り入ったのを大いにまつ って、後に、天下を平定したという故事など、あげて、
「これなん、熊野権現の御利生ごりしょう と覚えまする。さても、幸先よき殿にはおわす」
と、口を極めて、前途を祝した。
清盛は、迷信ぎらいである。日吉ひえ 山王の神輿に、矢を射たほどの男だが、しかし、こういわれると、信じてみたくなる。
父忠盛の病中にも、彼は、まわりの者から、不信心をせめられて、父の病気平癒のためには、 をまげて、衆僧に、大般若経だいはんにゃきょう の写経を頼み、それを伯耆ほうき大山寺だいせんじ に納めて、祈願をこめたのも、つい去年のことである。
おりふし、亡父の冥福めいふく を祈るため、熊野へ行く途中ではあったし、海路うなじ の旅のつれづれも慰められ、この偶然を、心から喜んだ。
「よし、そんな吉兆の魚なら、おれ一人で食べては、果報に余る、おれが調理するから、みなも食え」
みずから庖丁ほうちょう って、鱸を料理した。家の子郎党らとともに、大いに杯をあげ、祝歌ほぎうた を合唱し、ふなべり をたたいて、伊勢の海をさんざめかしたものだった。
──だが、それ以来、べつに、幸運もない、むしろ、頼長の勢力下に、数年の不遇が続いただけだ。
すずき の吉瑞は、どうしたことだろう。このたびのお召しが、熊野権現のそれならばだが?)
彼の るところ、今度の乱は、天皇に抗する上皇の戦いとはとな えられているが、謀臣対謀臣の争覇そうは 、野望と野望との葛藤かっとう である。決して、大儀を持つ戦ではない。──
おれが横から野望を抱く。また何の不逞ふてい であろうと、彼は思う。
野望といえ、彼には彼の目的も理想もあった。── 芋畑の芋の子のごとく えてゆく六波羅の眷族けんぞく に、一門の長として、何らかの将来を開拓してやる生存の必要 ── 自然の勢いに迫られていたことと、もう一つは、貴族独占に代わる、地下人のための、地下人中心の政治を興すそれであった。
たれの場合も、出発は正しくて美しい。晩年の、太政入道清盛は、まるで、別人みたいな存在になったが、壮年の彼には、そんな理想もあったのである。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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