童が、大団扇
で、清盛の横から、扇あお いでいる。座には、その微風だけが、動いていた。 清盛は、円座えんざ
にあぐらを組み、例の、暑がり性とて、鎧よろい
は着ず、白木綿の鎧下着の前を押しはだけて、侍童の扇ぐおお団扇にわざと、臍へそ
を出していた。 こういう不行儀な御大将を、たのもしいと見る者もあり、また、困ったお方かた
だと、たしなめたがる身内も多い。御台盤所の時子など、その先鋒せんぽう
である。 (── それだから、あなたは殿上人から誤解され、源為義や義朝などは、さすがゆかしいと人もいうのです。子どもらも皆、それぞれ官職についているのに、いつまでも、あなたが、塩小路をうろついていたころの、伊勢ノ平太のままでは困るではございませんか) こう言えるのは、彼女と、そして、清盛の義母、池ノ禅尼
(忠盛の未亡人) だけでだった。 清盛は、妻や義母には、いや、女にはだれへもやさしく ── 先刻さっき
みたいな場合でなければ ── たいがいハイハイ言っている。だが、本気で相手にしていないのかも知れなかった。悪かった。気をつけよう。あっさりは言うけれど、彼女らのいないところでは、守っている風は、ちっともない。 もっとも、今年三十九歳。男性の旺盛期おうせいき
である。むかし、木工助家貞が、よく彼に言った 「天地が生んだ一個の者」 のべんべんたる腹の中には、野性も、地下人根性も、多分だろうし、なお、何が詰まっているかわからない。その未来欲は?
未来業みらいごう は? 清盛自身にも、分かってはいない。 今の彼はただ眼前の強烈な一欲に燃えていた。待っていた
“時” である。いかに、今日の陽ひ
の目を待っていた忍耐の地下草であったことかよ。もちろん、生命、妻子、家門も賭さねばならないと分かっている。それだけに、宣旨があっても、軽々には、動けなかった。次男基盛に、二百騎をさずけ、朝命には、こたえておいたが、彼自身の臍は、でんとすわったまま、今日、七月十日、陽ひ
も五条河原にうすれかけていたが、まだ容易に、起ち上がる気色もない。 |