〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-T 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (二) ──
九 重 の 巻

2013/03/01 (金) 赤 旗 の 下 (二)

「や、なんだ。あの諸声もろごえ は」
清盛は、ふと、左右の者を見まわした。
正殿せいでん の外側は、板じきのひさし の間である。また、廊の間とも、細殿ともよばれる、部屋部屋に連なっている。そこここに、詰めあっている武者たちは、口から口へ、清盛のそばまで、すぐ伝えて来た。
「御次男の君が、宇治路へさして御発向とみえ、いま、川向こうを、御通過になったのでございました」
清盛は、聞くと、
「・・・・あ。そうか」
言ったきりである。
そして、義弟の非蔵人ひのくろうど 時忠や、実弟の大夫経盛、老臣の筑後左衛門家貞 (以前、木工助もくのすけ ) 、その子家長。また伊勢平氏の盛俊、貞能、盛国などの腹心をまわりにおいて、
「── すると、ざっと、六百騎か」
と、到着の名簿を読んだ時忠に、軍勢の頭数を、 き返した。
「なお、たそがれにも、明朝にも、遅く着く者がありましょうが、現在で、総勢六百八十八騎となります」
「そのうち、主立った武者の名を、もういちど、読んでくれい」
「御一門と、ここにおる者は、略します──。新兵衛尉家李いえすえ 、薩摩右馬允うまのじょう八幡やわた 美豆みず 左近将監、同じく太郎、同じく次郎。── 滝口たきぐち の武者には、滝口家綱、家次。兼李、兼道。──また河内かわち よりは、草刈部くさかべ 十郎、さずく 源大夫。伊勢古市からは、伊藤武者景綱、伊藤五、伊藤六。── 伊賀の山田小三郎惟之これゆき 、備前の難波三郎経房、備中の瀬尾太郎兼康・・・・」
さっきから、時子の侍女が、何か、ここへ伝えに来ていた。しかし、遠くに、手をつかえたまま、言い出しかねている風であったが。
「あの・・・・御台盤所みだいばんどころ さまから、急いでという、お取次ぎでございますが」
「なに、奥方おく からだと、なんだ?」
「ただ今、御次男基盛様の、宇治路への御人数が、すぐ川向こうを通られますゆえ、殿にも、物見の楼まで、急いで、お渡り遊ばすようにと」
「── 時子あれ が、いうのか」
「はい、和子さまの初陣を、見てあげて欲しいと仰っしゃいまして」
「おれには、そんな暇はない。奥方おく にいえ、基盛は、宇治へ花見に出かけたのではないぞ、と」
「はい。・・・・」
「それよりは、基盛が、首になって戻って来ても、泣き えぬように、心支度が大事だぞと、聞かせておけ」
侍女は自分がしかられたように、妻戸の外へ出ると、たもと を眼にあてて、走って行った。── そのあとを、清盛は、ことばに力を込めて、言っていた。
「知らないのだ、いま時の女童おんなわらべ は。── いくさ というものが、どんなむご いものかを、身に知っていないのだ。西海や東国には、絶えず戦われているのだが、久しく、この都には、なかったからな。もっとも、おれや、和殿わどの たちでも、都の中に兵乱を見るのは、生まれて以来、今日をもって初めとする。これは、容易な時勢ではない」
瞬間、みな、黙ってしまった。── 言われるまでは、浮ついていた自分にたれも気づきはしなかった。ただ雰囲気ふんいきたの んで強がり合っていたに過ぎない。しかし、清盛が言ったとおり、花見ではない。合戦なのだ。白刃はくじん乱箭らんせん と炎の下に、名誉や出世だけが拾えるものと夢見ているとしたら し難いばかである。もう一ぺん、家郷を思い、妻子を胸に描いてみるがいい。生命にも、悔いはないか、自分自身に いてみろ。── と、人びとは、あらためて、言われたような気がしたのである。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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