新帝後白河は、姉小路西洞院の里内裏
(皇居外の市中の皇居) に移って、喪に服しておられた。 柳ノ水の御所の大木に登って、小手をかざすと、ここの内は、まる見えなのである。守護を承うけたまわ
っている下野守義朝の部下は、気がついて、義朝にこれを告げたので、義朝は、 「いや、そ知らぬ態てい
をしておれ、目にもの見せてやる」 と、柳ノ水の御所の出入りを見張らせておき、相手方の武者二人を、召捕った。 彼らの自白によって、新院の留守に御所にたて籠こも
った軍兵は、左府頼長が、東国の自領から早くに召集しているものとわかった。 それと、なお。 頼長は、自邸の東三条亭に、相模の阿闍梨あじゃり
勝尊しょうそん という僧を請しょう
じて、内裏だいり を呪詛する秘法を行わせている
── とい事実も、その者の口から割れた。 義朝は、すぐ、手勢を引き連れて、東三条亭を取り巻いた。呪壇じゅだん
の現場で、ひとりの怪僧を捕縛し、また、証拠となる書状なども収めて引きあげた。 この騒動は、街々まちまち
に伝わり、当然、田中殿にも、その日に聞こえたであろう。──新院が、真夜中に、田中殿を出て、白河の斎宮いつきのみや
へ渡御されたその日の ── 出来事だったのである。 新院御謀反のうわさは、こうして確証づけられた。もはや日時をかしておくべきではない。美福門院も翌十日の朝、安楽寿院から八条烏丸へ移った。そのほか、公卿百官も、雲の移行するように、洛内へ帰った。少納言信西は、その日、高松殿の南庭に、軍勢を集めて、詔みことのり
をつたえ、その後で、こう指令した。 「── 義朝と義康とは、内裏にあって、主上を守護し奉ること。そのほかの将士、検非違使けびいし
らは、新院へ加勢の為に、諸国から馳は
せのぼる敵を、関所関所にて、防ぎ止めよ。内裏方へ、味方あるは入れ、新院、頼長らに、応じて来る者は、討ってとれ」 この日、この朝命こそ、それまでは、皇都自衛でしかなかった武士の弓箭きゅうせん
をして、敵へ向かっては敵を選ばず躍り掛かれと、あえて、無制限な血の曠野こうや
へ放したものであった。東北の未開土や、西海の乱賊はべつとして、久しいこと、武力の恐怖を知らなかった奈良、平安以来の文化社会に、決別けつべつ
を告げた日でもあった。 ── わあっと、本能性を帯びた武者声が、それに応こた
えた。 諸道への旗分けには。──粟田口へは、隠岐判官維繁、淀川路へは、周防李実。大江山口へは新藤判官助経。久々目路くぐめじ
には平判官実俊。 そして、清盛の次男、安芸判官基盛は、 「宇治路へ、急ぎ向かえよ」 と、命ぜられた。 どしたのか、父清盛は、この日もまだ、内裏に姿を見せていない。基盛は、それが気にかかっていた。手勢二百余騎を連れ、六波羅ろくはら
のわが家を横に見て宇治路へ馳は
せ下って行く彼であった。兄の重盛より年は一つ下の紅顔十七、いうまでもなく、初陣であった。 |