〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-T 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (二) ──
九 重 の 巻

2013/02/28 (木) 保 元 ・ 地 獄 序 曲 (一)

新院がお留守の間に、柳ノ水の三条御所へ、たれのさしずもなく入り込んで、たてこも った武者たちは、たちまち閑寂な園の泉石も、広前の敷き砂も、馬糞ばふん草鞋わらじ のあとで、荒らし放題、踏みあらしてしまった。
「・・・・・これは一体、どうした人たちだろう?」
水守小屋の舎人とねり 、阿部麻鳥あさどり は、かなしそうに、柳ノ水のそばに、毎日、立ち暮れていた。
踏み荒らす程度は、まだ忍ぶとしても、しのび難いのは、物珍しげに、土足で内殿の廊を歩いたり、大膳寮の者を脅して、食糧を出させたり、はなはだしきに至っては、女房たちの住む奥まった所で、おりおり悲鳴などがもれることであった。
まだしもそれは、彼として、 をふさいでいても。
麻鳥が、我慢がならないことは、この柳ノ水のそばへ来て、坂東なまりの兵士どもが、がやがや、わいわい、野鳥みたいな裸体をあらわにして、釣瓶つるべ から水を飲む、顔の汗を洗う。行水をつかう。── 果ては、附近で、立ち小便するやから さえあるのだ。
こわ らしい人たちではある。けれど、ついに、言わずにいられなかった。
「もし・・・・お願いですから、ここの水を使うのだけは、やめてください」
「なに、なんだと」
兵士たちは、彼を、案山子かがし ほどにも、見ていなかった。
「これは、柳ノ水と申して、都一の名水です。上皇さまの供御くご の水でもあります。あちらにも、べつに井戸があり、流れもあるでしょう。どうぞ、ご遠慮くださいまし」
「なんだ、てめえは、どういう奉公人かい」
「柳ノ水の、水守でございます」
「水守・・・・水番か」
「はい、水の清浄を守るだけが、わたくしの役目です。わたくしの生命をもって、守らねばなりませんので」
「あはっはっはっ。わははは」
兵士たちは、笑いこけた。非常な滑稽こっけい に感じたらしい。彼らの郷土、坂東地方の山野には、水はあり余って、時に洪水をなしたり、畑や家を流したり、困り物とすら思っている。いくら、きれいとはいえ、冷たいといえ、その水に、番人を付けておくやつの気が知れない。また、まじまじと、年がら年中、立っている人間の料簡りょうけん もわからない。
「ふざけるな。いくら都でも、雨が降れば水はたまるだろう。上皇がお使いになるとしても、八大龍王じゃあるまいし、飲むたびに、井戸をから っぽにするわけではあるまい」
おそ れ多いことを仰っしゃる人たちではある。いったい、皆さまは、何でこの御所へ、そのような狼藉ろうぜき をしに入って来たのですか」
「狼藉だって・・・・ やい、いつおれたちが、狼藉したか。ここを守るために詰めたのは、左大臣家の御命令なのだぞ。左大臣家に聞いて来い」
「あの、頼長公のお指図なのですか」
夜長公よるながこう か、昼長公ひるながこう か、そんなことまで、知ったことじゃない。そのうちに、合戦となれば、どうせ御所も柳ノ水もあったものか。てめえなども、今のうちに、穀倉でもかきまわして、少しでも、腹をふくらませておいたほうがいいぞ」
到底、まじめに、話し合える、人々ではない。
これ以上、ものを言えば、次には、腕力ときまっている。麻鳥は、彼らの手に手に持っているさまざまな穂先ほさきほこ長柄ながえ の刀など、刃ものの光を見てすら、きも が縮んでしまう。なすがままに、見ているしかない。
見ていると、彼らはまた、しばしば、ふしぎな行動をしている。ここの大きな樹木という樹木へ、ましら のように登り、小手をかざしたり、身を隠しなどしながら、のべつ、高松殿に方を、観望している様子なのだ。── そしては、何か発見すると、たちまち二、三騎が、裏門からどこへ何を報告にゆくのか、ムチを打って、駆け出して行く。
「この水の れる日は、わしの生命も涸れるのだ。この水を守るだけを生きがいとしていたのに。・・・・もし、合戦にでもなったら」
麻鳥は、そこの柳にもたれて、考え込んだ。新院のおん身が気づかわれてならないものの、下賎げせん の身分では、どうこの真心をささげようすべもない。涙になるばかりであった。── そのほお を、なでいたわ る如く、その耳へ、何かをささやくもののように、夏柳のみどりの糸が、そよ風につれて、彼の顔へ、寄っては離れ、寄っては離れた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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