故法皇の七日の御忌には、田中殿は、かたく門を閉じたきりであった。──
安楽寿院の方は、その日、鐘明け、鐘暮れに、終日
、万部の読経と、あやしき軍馬の喧騒
とが聞こえた。深く見れば、ふしぎな人間の所業と感情の使い分けというしかない。しかし、なんの矛盾でもないようにそれは執り行われた。 「たとえ、思し召しは、如何
あろうと、きょうの御仏事には、ぜひにも、御参拝しなくてはかなわぬものを・・・・」 と、新院に対する誹謗
が、またしても、黄昏
とともに、人びとの口端
にのぼっていた。 この日の空気に、左京大夫教長は、いよいよ、これは大事到来と、気がついた。そこで、兄の徳大寺内大臣実能の館を訪い、 「どうも、新院の御謀反は、真実らしゅうございます。大変ことになったものです。困りました。どうしたものでしょう」 と、相談した。 じつは、実能も、内府の枢機におるので、はやくも雲行きは知っていた。しかも、自分の無力では、処置の施しようもないことも分っていたので、病気をかまえて、自邸に寝ころんでいたのである。 ──
が、いくら弟でも、教長の真剣な顔つきにたいして、そうも言えなかった。 「わしが病でなければ、新院にお目通りして、御意見申し上げるところだが・・・・ままならぬ身が、もどかしいよ、弱ったものだ」 「兄君の、おことばとして、わたくしから、申し上げてみましょうか」 「そうだの。おそらく、お用いあるまいが。・・・・しかし、晏如
としているわけにもゆくまい。兵火となれば、われらが身にも、降りかかる火の粉・・・・」 「御
諫奏 には、なんと、申し上げたらよいでしょう」 「御出家をおすすめしたがよい。──
御出家あそばすのが、新院のおん身にとっても、安全な道だし、われら臣下も皆、ほっとする」 教長は、すぐ田中殿に引っ返して、新院に宿直
し、御 気色
をうかがっていたが、どうしても、言い出すことが出来ない」 ところが、その夜 ── 七月九日の真夜半。 にわかに、御幸ぶれが出た。 お行き先は、白河の斎宮
(加茂神社に仕える皇女の御所) ということである。 教長は、驚いた。思い切って、御座の間に平伏し、面をおかして、諫奏した。 「まだ、故法皇の御
中陰
(四十九日忌) も過ぎぬまに、ここを離れて、ゆえなく御
帰洛 あそばしては、世上の聞こえもいかがでしょう。さなきだに、新院には、天下を謀らんとする御心ありと、流説
、憶測 など、紛々たるおりもおりですのに・・・・」 かれが、万斛
の思いを、いいもあえないうちに、新院は、刃ものひらめきにも似る冷たい微笑を片頬
に見せられて、つよくそのお顔を横に振った。 「否とよ、教長。白河へ移るのは、女房兵衛佐 (新院の妃・重仁の生母) より、密かな知らせがあって、朕の身に、不慮の難があろうとのことゆえ、難をのがれんために、ここを去るのだ。──
お汝 は、朕に身に、何が起こっても、大事ないというか」 「・・・・・・」 教長は、重ねて、ことばも出なかった。のみならず、かれも御車に供奉
を命ぜられてしまった。 夜も更けてからのことだったので、殿裡
の物音も、妙に、あわただしい。しかも、ひとりの舎人、随身も余さず、すべてが、引き揚げの様子であった。あまつさえ、門の内外には、いつの間にか、物々
しげに身を鎧 った武者勢が、黒々
と、むらかり立っている。そしてやがて田中殿をあとの、深夜の道へ、あやしく、軋
み出て行く御車を仰ぐと、武者ばらは、一せいに前後をかこんで、歩みをそろえた。 御供
の人をだれだれかと見れば、左京大夫教長を始とし、右馬権頭実清、山城
前司 頼資
、左衛門大夫平ノ家弘、その子、光弘などであり、あいにく、空に星一つ見えないばかりか、松明
も禁じることのしたので、大きく揺れる車廂と、大勢の太刀や物の具のひびき合う音のみが耳につくだけで、わずか鳥羽の里から都白河までの道なのに、御車の内も外の者も、如法闇夜
をさまようような思いであった。 |