〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-] 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
九 重 の 巻

2013/02/25 (月) 柳 ノ 水 (一)

ここおよそ十四年ほどの間、世人の記憶から、まったく、忘れられているお人があった。
新院、崇徳すとく 上皇の、存在である。
お心にもない御退位を強いられて、三条西洞院にしのとういん の柳ノ水の御所に、ひそと、世捨て人のような御生活に入って以来、いつとはなく、殿上も世間も、絶えて、この君については、時局と結び合わせて、考えてみたこともない。
新院御自身も、努めて、それは避けて来られたのであろう。── 退位の後、許された侍者は、随身九人、院司、召次、雑色まど、ごく少数の者に限られていた。── にもかかわらず、しいて出入りをかざり、権勢の臣を、近づけなどしたら、それはただちに、父法皇や、異母后美福門院のお疑いを うにちがいなかった。
それでなくてさえ、御退位の後も、なお数年間は、ややもすれば、
(新院の御不平は、一方ひとかた ではないらしい)
とか、
御剃髪ごていはつ もなく、お すのは、時あらば、また御復位をと、ひそかなお望みがあるにちがいない。元来、英邁えいまい な君。・・・・叡慮えいりょ のほどは計りかたし)
などと、あらぬ臆測おくそく を言い立てて、仙洞や女院へ媚びてゆく者が多いことを ── 人ごころの危うさを ── よく理性を失わない新院は、静かに、ここの内から見ておられた。
うて、益がなければ、いつか訪う人もなくなって来る。新院もまた、政治向きのことはもちろん、式事や、四季の御遊ごゆう にすら、めったに、門を開くことはなかった。
そして、街中の真空地帯のように、鬱蒼うっそう と、大きなかげ をなしている森のうちに、新院は、二十三歳で退位以来、ことし三十七歳までのお若い月日を、まったく、辛抱強い御生活に、じっと、耐えておいでになった。
それにしても、まだ三十七の君である。何としても、肉体がお若い。朝夕の持仏堂のおつとめとか、昼の読書や、和歌などにも、日を消しかねて、鬱然うつぜん と、 を仰ぎたいお気持にも駆られもするにちがいない。── 時には不意に、近習きんじゅ もお連れにならず、ただお一人で、庭を歩き、そして、柳ノ水へ立ち寄って、
「のどが渇いた。・・・・小舎人こどねり 、水を んで も」
と、そこの水守に、直々じきじき 、おいいつけになることなどもよくあった。
ここの庭にある清泉は、平安の都が開けれる以前からの古い名水だといわれている。
井のほと りには、いつのころからか、大きな柳が植えられていた。そして供御くご や飲料にも用いられているので、傍らには、水を守る舎人とねり の小屋があった。
「あっ。・・・・陛下でいらっしゃいますか」
お声に、それと知って、水番の小舎人は、直々じきじき のお求めにうろたえながらも、幾たびか、前にも、同じことがあったので、
「はい、ただ今。・・・・ただ今、参らせまする」
と、新しい素焼の器に、柳ノ水を、いっぱいにたた え、いそいそと、ひざまずいて、さしあげるのであった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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