美福門院の立場と、お気持は、愛児近衛帝とのお別れに会わぬ前から、かねがね、非常に、複雑であった。 崇徳上皇との、おん仲たがいは、崇徳の第一皇子の重仁
をしりぞけて、わが子の近衛を立てられたことから、まったく、凡下社会でいう、継子ままこ
継母ままはは の、世にありがちな、冷たいものになっている。 それも、ひとつ。また。 近衛帝の皇后を、選ぶさいに、裏面から法皇をお説きになって、左府や宇治の入道の企みをくつがえし、呈子しめこ
を、摂政忠通の子として、立后を急がれたのに ── ふたたび、宇治の入道と頼長父子の粘りに、その望みを打ち砕かれた ── あの口惜しさも、根深く、胸に秘められている。 従って、それからというものは、 (──
左府、憎し) とする女院の憎しみはどうしても、お解けにならない。法皇のお口の端から、ふと、頼長の名が出ても、すぐお顔色が変わるほどだった。 反面、忠通には、同情されて、彼の幽居する桂川の家へ、おりには、慰めの歌をお遣りになったり、忠通からの文使ふみづか
いも、おりおりあった。 彼の便りや、また、宮中情勢にひどく敏感な、紀伊ノ局だの、多くの女房たちから、聞くところによって、女院は、離れていても、愛児近衛帝のお身については、始終、心をつかっていた。かろいお風邪ということ一つでも、聞きのがしにはしていない。 幼帝と侮あなど
って、頼長が、こう申されたの、ああいったの。ことごとくに、つらく、おさしず申し上げるなどという内報が ── ここ烏丸八条の築土ついじ
の内へは、朝夕に伝わって来る。ことに、近衛帝が、おん眼を患ってからは、女院のお心やりも、針のように、するどくなり、悲しむにつけ、よろこぶにつけ、感じやすくなっておられた。 女ばかりの国のこういう環境に、猜疑さいぎ
が、育たなければ不思議である。一心に人を猜疑し、一念に人を憎悪する燃焼が、女性の弱点をとらえやすい一魅惑であるばかりでなく、当時の社会も、それを、火祭りのように焔ほのお
とするに都合つごう のよい、助演者や道具立てを持っていた。 僧侶そうりょ
、修験者しゅげんじゃ 、陰陽師おんようじ
、巫女みこ 、祈祷師、禁厭まじない
、物忌ものい み、占い、呪詛じゅそ
。数限りもなく、それはある。凡下の家々から、宮中の仙洞せんとう
にまで、形こそ変われ、生活の内にまで入っている。人生の無常、人間欲望の儚はかな
さなど、仏教の諦観ていかん に、信心の掌て
を合わせながらも、どこか、生活に空虚の多い貴族たち ── とりわけ女院や女房たちの住居には、それらの異形なる職業の男女 ── 迷信の助演者が、必ずといっていいほど、出入りしていた。 紀伊ノ局のささやきに、あらわな動揺を見せられた女院は、むしろ、自身のお胸にあったものを、他から呼び起こされたように、息を詰めて、うなずいた。 そして、すぐ、弾み返すように、仰っしゃた。 「・・・・紀伊。・・・・いつもの、巫女かんなぎ
の夜須良やすら を招いて給た
も、新熊野いまくまの の巫女かんなぎ
を」 |