〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-] 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
九 重 の 巻

2013/02/24 (日) 女 の 国

天下諒闇りょうあん の中に、先帝近衛の、薄命な御生涯に、この秋のうら悲しさを、いとど ぶる人びとは多かったが、わけて父君の鳥羽法皇と、母なる美福門院のおん嘆きは、いうも、おろかである。
八条烏丸の女院は、女房たちばかり多いので、崩御と聞こえわたると、翠簾すいれん 深く垂れこめた局々つぼねつぼね で、あまたの女房や女童めわらべ までが、とり乱して泣きかなしみ、その声が、きり の花の咲く築土ついじ 越しに外まで、もれ聞こえたという程だった。
女房たちは、涙と涙の底で、ありし日の、端麗なる童帝のお可憐いじら しかったことを、いつまでも、語りおうて尽きないのである。
つねに、どこか、おさびしげな眉目みね の、かえって、深く静かなうるわ しさ。下々の者への、思いやりのお優しさ。とりわけ、人をなつ かしまれて、人恋しげなおさが は、いま思えば、それも夭死わかじに あそばす天命を、すでにお持ちになっていたためかも知れない。
それにしても、三歳にして、九五きゆごそん に立たれ、在位十余年の間、どれほど、童心らしいお楽しみを持たれたろうか。昼間も御灯みあか しを用いるような内裏の奥から一歩も出で給わず、朝堂に出御されても、群臣百官を前に、身じろきもできぬ袍衣ほうい 宝冠ほうかん にじっと耐えてお さねばならなかった。春は来ても、軽馬に銀鞭ぎんべん を打って、都の街をお歩きになるではなし、秋の月といっても、大空の限りを仰がれた御記憶も、おそらくなかったに違いない。
童帝も、人の子でおわせば、ときには、母恋し、父なつかしと、会いたく思し召すこともあられたろうに、凡下ぼんげ の子のようには、母のひざや、父の肩に、思いのまま戯れ得る機会もない。たとえ、おりにふれ、八条の女院や、鳥羽院を訪わせ給うても、それは、相見て、また、相別れる、儀式の日の一とき にすぎないのである。
(・・・・ああ人の子よ。人の子と生まれるならば、たとえ雨もるしず茅屋あばらや には生まれても、天子には生まれつくな)
まのあたりに、帝位の何たるかを見てきた彼女たちは、口にこそ出さないが、みな、そう思った。── それだけに、なお、人の子としての、先帝の生涯を、いた ましがった。
女房たちさえ、これほどなので、美福門院の悲嘆はなお、いうまでもない。艶なる容顔も、一夜のうちに、やつ れを見せ、ふと、先帝のお遺物かたみ などに触れては、果てしなく、泣き乱れて、かしず く女房たちも、慰めるべき立場を忘れて、ともども、そで をぬらし合うばかりだった。
少納言藤原信西の妻の紀伊ノ局も、女院の側近う仕えまつる女房のひとりであったが、先帝大葬の事が終わってから、まだ幾日もたたないある夜、容易ならないことを、女院のお耳へ、そっとささやいた。
「・・・・雑仕女ぞうしのめ の千草が、そらおそろしいことを、聞いて参りました。千草の親は、愛宕あたご 権現の別当浄明じょうみょう に仕える山侍でございますが、その者が申しますには、先帝のおかくれは、まったく、天寿ではない。たれか、おんよわい を縮め参らせんと、呪詛じゅそ した者がある。──去年ごろより、悪修験者が、おりおり、愛宕山の奥ノ院なる太郎坊天狗の御堂に群れ、のろ いの灯をつらね、一せいに呪経をとなえて、夜が白むと、かき消えるように去ったことが幾度かあった。・・・・呪文に、先帝のおん名を唱えるのも聞いた。ゆめ、人には告げな ──と、千草の親は、打ちわなないたということでございます」
「・・・・?」
女院は、おくち の色も失い、紙より白い顔ををして、吸い込まれるように、紀伊ノ局のささやきに、聞き入った。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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