法皇の側近には、近ごろ、ら頼長派がふえている。 忠通が、法皇のおん前で訴えた言葉は、すぐ、つつぬけに宇治の忠実へ、聞こえていた。 わざわざ、告げに来たのは、夕顔の三位経宗である。経宗は、話しているうちに、忠実の顔色が変じてきたので、 (これは、聞かせ過ぎたかな?) と、余談へ持って行こうとしたが、忠実の気色は、もどらなかった。 「経宗、それは、世間話ではあるまいの」 と、にらむような眼
ざしで、念を押した。 「なんで、無責任なうわさなどを、物々しゅう、お耳に入れましょう」 と、経宗が、証拠立てるのを聞きすましてから、忠実は、何か、意を決したらしく、 「・・・・もはや、堪忍の緒は切れた」 と、つぶやいた。 この時の忠実は
「── 中夜、宇治ヲ発シテ、京ニ入ル」 と、そのころの人の日記には書かれている。真夜半まよなか
とは思われぬが、しかし、夜に入って発したのかも知れない。── とすれば、この老父も、なかなか短気な人だったとみえる。 京に入って、東三条亭に入るやいなや、彼は、源ノ為義を呼んで、 「お汝こと
の兵を招集して、この辺りを、警護せい」 と、いいつけた。 為義にとっては、譜代恩顧の家である。ただちに、六条から令を発し、東三条の亭をめぐる辻々つじつじ
まで、手勢の源氏武者で、十重とえ
二十重はたえ に、護りかためた。 忠実は、一門の家人、武者輩ばら
にまで、宣言して、自己の行動を、こう理由づけた。 「── 忠通の不孝は、年久しいものがある、老父は、これを忍んで、長い間、彼の下に、屈従して来た。近くはまた、国家百年のため、摂政を頼長に譲るべしと、ひざを曲げて、子の彼に請うこと、十回にも及んだ。しかるに、不遜ふそん
なる彼は、ただに許諾しないばかりか、法皇のおん前において、侮言ぶげん
をみだりにし、はなはだ不順な言をなしたという。── 齢、七旬の老父も、ここに至っては、もはや我慢がならない。自今、父子の義を絶つことを、ここで明らかにしておく」 父子断絶の宣言である。 よくもそこまで腹を立てられたものよ、と人びとは驚いたが、忠実の立腹は、そんな程度げは、まだすまない。 「──
それ、摂政の位は、朝廷の授けるところで、私わたくし
にこれを取り上げるわけにはゆかぬ。しかし、氏ノ長者は、もともと、余が忠通へ与えたものであるから、勅宣には及ばない。われの与えたものを、われまたこれを取る。何の不可かあろう」 彼は、再び、こう揚言した。 そして、みずから、源氏武者を率いて、勧学院の内にある
“長者の官倉” へ行き、藤氏の長者たる者が、代々伝領してゆく、長者の印や、朱器しゆき
台盤だいばん 、文書もんじよ
などの一切を取って、これを、頼長へ授けてしまった。
勧学院の内には、学舎や図書寮ばかりでなく、氏族間の公事くじ
裁判所があるし、また社寺や、荘園しょうえん
の政所まんどころ もあって、藤原閥の、一政庁をなしていた。 氏ノ長者とは、つまり全藤原氏の宗家格をいうのである。その指令は
“勧学院政所下文” となり、また“長者宣” といわれて、あだかも、政府通牒つうちょう
のような威令をもつ。 氏ノ長者を継いだ頼長の家の門へは、祝賀の客が、ひきもきらなかった。以来、十数日のあいだ、東三条付近の辻は月卿雲客げつけいうんかく
の馬車で、織るがごとき混雑がつづいたという。 法皇からも、参議藤とうの
教長のりなが を、使いに立てられ、 (老公の断ハ宣シ。忠通ノ不孝ハ、云イ
フニ足タズ) と、書を賜って、彼の長者継承を、祝福された。 頼長の方からも、法皇に書を、上のぼ
せて、 (このたびのことは、恐喜、こもごもです。みずから、善悪も解しません) と、めずらしく、慎みのある文意と、反省を披瀝ひれき
した。 ふたたび、法皇の御書が、彼にいう。 (否とよ、不孝は、忠通である。公は、老父に従うのみ。祖を尊び、親を敬すは、長者の示さねばならぬ範ではないか)
──と。 「よかった・・・・まず、よかったのう」 どこまでも子煩悩ぼんのう
な忠実は、この一成功に、ほっと、ひと息つくと、そのほくほく顔のきげんに任せて、また、頼長を、こう歓よろこ
ばせた。 「おそらく、忠通は、氏ノ長者を失うて、茫然ぼうぜん
と、ふさぎ込んでしまうことであろう。彼のとる道は、蟄居ちゅっきょ
しかない。・・・・見よ、やがて、摂政もやめざるを得なくなろう。頼長よ。お許おもと
の摂政は、もう決まったようなものじゃぞ」 一方。 忠通の方はといえば、五条坊門小路の館も、桂川の別荘も、めったに、訪う車もなく、主あるじ
の出入りすら、めったに見る事がなかった。 |