〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-] 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
九 重 の 巻

2013/02/22 (金) にがきく さけ (一)

法皇の側近には、近ごろ、ら頼長派がふえている。
忠通が、法皇のおん前で訴えた言葉は、すぐ、つつぬけに宇治の忠実へ、聞こえていた。
わざわざ、告げに来たのは、夕顔の三位経宗である。経宗は、話しているうちに、忠実の顔色が変じてきたので、
(これは、聞かせ過ぎたかな?)
と、余談へ持って行こうとしたが、忠実の気色は、もどらなかった。
「経宗、それは、世間話ではあるまいの」
と、にらむようなまな ざしで、念を押した。
「なんで、無責任なうわさなどを、物々しゅう、お耳に入れましょう」
と、経宗が、証拠立てるのを聞きすましてから、忠実は、何か、意を決したらしく、
「・・・・もはや、堪忍の緒は切れた」
と、つぶやいた。
この時の忠実は 「── 中夜、宇治ヲ発シテ、京ニ入ル」 と、そのころの人の日記には書かれている。真夜半まよなか とは思われぬが、しかし、夜に入って発したのかも知れない。── とすれば、この老父も、なかなか短気な人だったとみえる。
京に入って、東三条亭に入るやいなや、彼は、源ノ為義を呼んで、
「おこと の兵を招集して、この辺りを、警護せい」
と、いいつけた。
為義にとっては、譜代恩顧の家である。ただちに、六条から令を発し、東三条の亭をめぐる辻々つじつじ まで、手勢の源氏武者で、十重とえ 二十重はたえ に、護りかためた。
忠実は、一門の家人、武者ばら にまで、宣言して、自己の行動を、こう理由づけた。
「── 忠通の不孝は、年久しいものがある、老父は、これを忍んで、長い間、彼の下に、屈従して来た。近くはまた、国家百年のため、摂政を頼長に譲るべしと、ひざを曲げて、子の彼に請うこと、十回にも及んだ。しかるに、不遜ふそん なる彼は、ただに許諾しないばかりか、法皇のおん前において、侮言ぶげん をみだりにし、はなはだ不順な言をなしたという。── 齢、七旬の老父も、ここに至っては、もはや我慢がならない。自今、父子の義を絶つことを、ここで明らかにしておく」
父子断絶の宣言である。
よくもそこまで腹を立てられたものよ、と人びとは驚いたが、忠実の立腹は、そんな程度げは、まだすまない。
「── それ、摂政の位は、朝廷の授けるところで、わたくし にこれを取り上げるわけにはゆかぬ。しかし、氏ノ長者は、もともと、余が忠通へ与えたものであるから、勅宣には及ばない。われの与えたものを、われまたこれを取る。何の不可かあろう」
彼は、再び、こう揚言した。
そして、みずから、源氏武者を率いて、勧学院の内にある “長者の官倉” へ行き、藤氏の長者たる者が、代々伝領してゆく、長者の印や、朱器しゆき 台盤だいばん文書もんじよ などの一切を取って、これを、頼長へ授けてしまった。

勧学院の内には、学舎や図書寮ばかりでなく、氏族間の公事くじ 裁判所があるし、また社寺や、荘園しょうえん政所まんどころ もあって、藤原閥の、一政庁をなしていた。
氏ノ長者とは、つまり全藤原氏の宗家格をいうのである。その指令は “勧学院政所下文” となり、また“長者宣” といわれて、あだかも、政府通牒つうちょう のような威令をもつ。
氏ノ長者を継いだ頼長の家の門へは、祝賀の客が、ひきもきらなかった。以来、十数日のあいだ、東三条付近の辻は月卿雲客げつけいうんかく の馬車で、織るがごとき混雑がつづいたという。
法皇からも、参議とうの 教長のりなが を、使いに立てられ、
(老公の断ハ宣シ。忠通ノ不孝ハ、 フニ足タズ)
と、書を賜って、彼の長者継承を、祝福された。
頼長の方からも、法皇に書を、のぼ せて、
(このたびのことは、恐喜、こもごもです。みずから、善悪も解しません)
と、めずらしく、慎みのある文意と、反省を披瀝ひれき した。
ふたたび、法皇の御書が、彼にいう。
(否とよ、不孝は、忠通である。公は、老父に従うのみ。祖を尊び、親を敬すは、長者の示さねばならぬ範ではないか) ──と。
「よかった・・・・まず、よかったのう」
どこまでも子煩悩ぼんのう な忠実は、この一成功に、ほっと、ひと息つくと、そのほくほく顔のきげんに任せて、また、頼長を、こうよろこ ばせた。
「おそらく、忠通は、氏ノ長者を失うて、茫然ぼうぜん と、ふさぎ込んでしまうことであろう。彼のとる道は、蟄居ちゅっきょ しかない。・・・・見よ、やがて、摂政もやめざるを得なくなろう。頼長よ。おおもと の摂政は、もう決まったようなものじゃぞ」
一方。
忠通の方はといえば、五条坊門小路の館も、桂川の別荘も、めったに、訪う車もなく、あるじ の出入りすら、めったに見る事がなかった。

※ 月卿雲客
公卿と殿上人のこと。 「げっけいうんがく」 とも。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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