〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-] 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
九 重 の 巻

2013/02/22 (金) せつ しよう そう だつ (二)

問題は、ここで、法皇が、万機を決する最高の御位置と、社会万民に及ぼす重大な御責任とを、よくわきま えられて、
(否!)
と、一言仰っしゃれればよかったのだ。ことは、寸時の御勇気ですんだのである。後の一波万波をよび、狂瀾きょうらん の世を招かずにすんだに違いない。
ところが、法皇は、愚かにも (── 後の史家はみな、敢て、愚かにという文字をここで使っている。筆、ここに至ると、院政の弊、上御一人政治の危うさ、これをなすかと、皇室を哀惜する余り、腹が立ってしまうのであろう) ── このとき忠実へ、
「うん・・・・」 と、承諾しておしまいになった。
そこで、数日の後、忠通をお召しになり、あらためて、法皇から、おさと しがあった。
それが、どういうお言葉であれ、忠通には、すべて分かっている。彼は、泣いて、法皇に、お答えした。
「臣は、不幸な人間です。家弟頼長の人となりは、陛下もよく御存じでありましょう。しかし、臣はまだ人にそれをいったことはありません。── が今、この叡問えいもんこうむ るのは、実に、辛いことです。頼長はなまじに才学あり、驕慢きょうまん 、人を侮る。── ために、臣は微才ですが、藤氏のそう をうけて来ました。頼長は、不平です。老父の愛をたの んで、臣の威権を奪わんものと、日夜、画策をめぐらしていることは、さきの立后問題で、陛下もよく御知悉ごちしつ ではございませぬか。── もし、頼長が、野望を達したら、必ず、国家を危うくします。国乱、火を見るより明らかです。ゆねに、臣は、老父の請いも、今日まで、聞き流していました。たとえば、官封を没せられても、臣は、辞しますまい。断じて、幼主のまつりたす け、朝廟ちょうびょう の臣たる本分のためには、死をも覚悟します。不幸の子と言われてもいと いませんと。── けれど、今日また、陛下の御諚に迫られては、もう臣の運命もきわ まれりと申すしかありません」
綿々と、情理を述べ、官衣のそで を、涙にぬらして、忠通は訴えた。
法皇は、忠通の嘆きが、あまりに深いので、ついそれ以上、何も仰っしゃれなくなってしまった。── で、むなしく、ありのままを、翌日、忠実へ通じておかれた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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