〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-] 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
九 重 の 巻

2013/02/21 (木)  よう ごよみ (一)

摂政忠通は、暑気あたりでもしたのか、食欲もすすまず、気分もすぐれない容子ようす だった。多くは、桂川の別荘に引き籠り、この土用中は、仙洞せんとう へも、あまり出仕の姿を見せない。
そてにひきかえ。悪左府頼長は、精勤していた。
頼長の精勤は、はた迷惑で、仙洞の下官げかん や、朝廷の公卿、役人たちは、さほででもない公務も、わざと。事々ことごと しげに、忙しい振りをしていなければならなかった。
彼が、颯爽さっそう として、庁の殿廊を、通るにあたって、時務の室から、暑さにうだっている小吏の欠伸あくび などが、うかがわれると、上司は、さっそく、呼びつけられた。
御辺ごへん の局におる大勢のまなこ は、すこし、夜を充分に眠っていないようだな。賭事かけごと もよし、女房通いもよいが、昼の時務につかう眼は、夜を、よく寝かしておき給え。夜を、よく」
皮肉ですむときは、まだいい方である。
頼長の機嫌が悪い時でも、また良すぎる場合でも、
「君は経書けいしょ を読むかね」
と来ると、ちょっと、いけない。かんたんには、解放されないことになる。
漢土の故事をひき、王道政治の賢者や名臣の例をあげて、牧民の要諦ようてい を説き、吏事七則の講義にわたるなど、薀蓄うんちく をかたむけ出して、止むことを知らない。
そんな時の頼長は、学問で腹がくちくて堪らないから、ひとつ、腹ごなしのためにと、相手をつかまえているように見える。つかまった者こそ、災難なのだ。
しかし、この程度では、まだ、彼の学識過多症は、なかなか空腹感を来さないと見えて、月に一回、東三条の自亭に、諸博士や、学徒を招いて、経書を論講し、耳新しい大陸の学説や、漢才を振り回すことが、左大臣家の恒例こうれい にさえなっていた。
その恒例の会で、あるとき、
「今、十月二十一日は、文宣王ぶんせんのう (孔子) の誕生日にあたっておる。今日の会は、まことに、大幸な日だ」
と、頼長が、挨拶に言った。
一博士が、いぶかって、
「どうして、孔子の誕生日が、二十一日と、お分かりになりますか?」 と、たずねたところ、頼長は、待っていたとばかり、公羊伝くようでん とか、穀梁伝こくりょうでん とか、また周の暦や、 の暦日などを比較して、大演舌をしたあげく、数学的に、きちんと、結論を出したので、みな、その博識に、あきれたということである。
また、もっと後年のことであるが、改元のときに、こういう逸話も遺している。
まず、諸博士が、集議して、年号の文字を選びあった。そこで 「天寿」 がよかろうとなり、頼長のところへ、
「いかがでしょうか?」 とはか りに行った。
頼長は、すぐ、首を横に振った。
「いかんなあ。これは、異国の隋朝ずいちょう にも議せられた年号だよ」
博士たちは、さらに、額を集めた結果、
「承宝、はどうでしょう?」 と、出直した。
「承は、止まるという意味にも通じる。義、宝、位。すべて、止まるは不吉だ」
── で、次に 「応暦」 という案を出すと、
「なにか、次の新帝を待つような年号じゃないか。おもしろくない」
また、議して 「天保」 はと、伺うと、
「文字を分解してみたまえ。一大只十、となる。用うべからずだよ」
諸博士たちも。頭を悩まして、さいごに、 「久寿」 なら苦情もつくまいと、おそるおそる、頼長の前に案を、ささげると、頼長は、これにも、一文句つけて、
きゆう は、きゆう に通じるが、年号には、反音はさしつかえないとしてある。ま、この辺かな・・・・」
と、やっと、久寿に決定をみたという。
彼はまた、占筮せんぜい (うらない) の法にくわしく、まま、それが適中したり、 たったようにおもねる者があったりするので、いよいよ慢心をつのらせる。
── その頼長が、暑中もめげず精勤して、日々にちにち 政務を突っつきいじるので、この夏は、院中、大恐慌であった。公卿下官は、日でりの田みたいに、しおれ返って、
「一体これは、いかなる天変地災か。こう、休みなしに、照りつづかれてはやりきれん。雨ごいでも、せぬことには」
と、こぼし合った。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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