摂政忠通は、暑気あたりでもしたのか、食欲もすすまず、気分もすぐれない容子
だった。多くは、桂川の別荘に引き籠り、この土用中は、仙洞せんとう
へも、あまり出仕の姿を見せない。 そてにひきかえ。悪左府頼長は、精勤していた。 頼長の精勤は、はた迷惑で、仙洞の下官げかん
や、朝廷の公卿、役人たちは、さほででもない公務も、わざと。事々ことごと
しげに、忙しい振りをしていなければならなかった。 彼が、颯爽さっそう
として、庁の殿廊を、通るにあたって、時務の室から、暑さにうだっている小吏の欠伸あくび
などが、うかがわれると、上司は、さっそく、呼びつけられた。 「御辺ごへん
の局におる大勢の眼まなこ は、すこし、夜を充分に眠っていないようだな。賭事かけごと
もよし、女房通いもよいが、昼の時務につかう眼は、夜を、よく寝かしておき給え。夜を、よく」 皮肉ですむときは、まだいい方である。 頼長の機嫌が悪い時でも、また良すぎる場合でも、 「君は経書けいしょ
を読むかね」 と来ると、ちょっと、いけない。かんたんには、解放されないことになる。 漢土の故事をひき、王道政治の賢者や名臣の例をあげて、牧民の要諦ようてい
を説き、吏事七則の講義にわたるなど、薀蓄うんちく
をかたむけ出して、止むことを知らない。 そんな時の頼長は、学問で腹がくちくて堪らないから、ひとつ、腹ごなしのためにと、相手をつかまえているように見える。つかまった者こそ、災難なのだ。 しかし、この程度では、まだ、彼の学識過多症は、なかなか空腹感を来さないと見えて、月に一回、東三条の自亭に、諸博士や、学徒を招いて、経書を論講し、耳新しい大陸の学説や、漢才を振り回すことが、左大臣家の恒例こうれい
にさえなっていた。 その恒例の会で、あるとき、 「今、十月二十一日は、文宣王ぶんせんのう
(孔子) の誕生日にあたっておる。今日の会は、まことに、大幸な日だ」 と、頼長が、挨拶に言った。 一博士が、いぶかって、 「どうして、孔子の誕生日が、二十一日と、お分かりになりますか?」
と、たずねたところ、頼長は、待っていたとばかり、公羊伝くようでん
とか、穀梁伝こくりょうでん とか、また周の暦や、夏か
の暦日などを比較して、大演舌をしたあげく、数学的に、きちんと、結論を出したので、みな、その博識に、あきれたということである。 また、もっと後年のことであるが、改元のときに、こういう逸話も遺している。 まず、諸博士が、集議して、年号の文字を選びあった。そこで
「天寿」 がよかろうとなり、頼長のところへ、 「いかがでしょうか?」 と諮はか
りに行った。 頼長は、すぐ、首を横に振った。 「いかんなあ。これは、異国の隋朝ずいちょう
にも議せられた年号だよ」 博士たちは、さらに、額を集めた結果、 「承宝、はどうでしょう?」 と、出直した。 「承は、止まるという意味にも通じる。義、宝、位。すべて、止まるは不吉だ」 ──
で、次に 「応暦」 という案を出すと、 「なにか、次の新帝を待つような年号じゃないか。おもしろくない」 また、議して 「天保」 はと、伺うと、 「文字を分解してみたまえ。一大只十、となる。用うべからずだよ」 諸博士たちも。頭を悩まして、さいごに、
「久寿」 なら苦情もつくまいと、おそるおそる、頼長の前に案を、ささげると、頼長は、これにも、一文句つけて、 「久きゆう
は、柩きゆう に通じるが、年号には、反音はさしつかえないとしてある。ま、この辺かな・・・・」 と、やっと、久寿に決定をみたという。 彼はまた、占筮せんぜい
(うらない) の法にくわしく、まま、それが適中したり、中あ
たったようにおもねる者があったりするので、いよいよ慢心をつのらせる。 ── その頼長が、暑中もめげず精勤して、日々にちにち
政務を突っつきいじるので、この夏は、院中、大恐慌であった。公卿下官は、日でりの田みたいに、しおれ返って、 「一体これは、いかなる天変地災か。こう、休みなしに、照りつづかれてはやりきれん。雨ごいでも、せぬことには」 と、こぼし合った。
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