ちょうど、法皇の御車が、門を、きしみ入ったばかりのところであった。 法皇は、使いがもたらした忠通の奉答にうなずいて、すぐ、御車の内で仰っしゃった。 「ゆるす。もう、許してやれと、摂政につたえい。せんかたもない」 それは実に
── あっさりとも、脆 いともいえる
── 子どもが執着していた物をふと手から離すにも似たような、お声だった。 三度みたび
、朝隆は、馬をとばした。 お言葉は、第一に、摂政忠正の門へ報ぜられ、また、左府頼長の館をも、沸き立たせた。 この夜、頼長は、東三条亭にあったが、もちろん、寝てはいない。 ほかにも、眠らないでいた門がある。多子の生家、徳大寺公能の館である。 狂喜した悪左府頼長は、自身、騎馬で吉報をここへ告げに来た。そして、公能を誘い、二人揃って、仙洞御所へいそいだ。 ──
忠実は、まだ、すわっていた。 もう朝隆から、よろこびは、受けていたろうに、茫ぼう
として、腰が抜けたように、宵からの所にいた。 けれども、そこへ駈か
け入るように、入って来た頼長と公能の姿を見るなり、ああ ── と朽ち木のように仆たお
れかけた。次には、相擁して、うれし泣きに何か口走りあう三人の体が一つになった。夜明けの光が、どこからともなく映さ
しこみ、果てしないその歓喜と煩悩ぼんのう
のかたまりへ、白々しらじら と、冬の朝が下りていた。 |
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正月。
── 藤原多子を、女御代から女御とされた。 まもなく春、三月十四日。 多子に、立后の華冠は授けられ、窈窕ようちょう
というには、まだ余りにあどけない、可憐かれん
な蕾つぼみ の皇后は、明けて、おん年十二の近衛帝と、雛ひな
のごとく、大典の式殿に並ばれて、群臣の万歳を、夢見るようなお顔でうけられた。 四月には、一方の藤原呈子しめこ
も、女御となった。そして、六月、ふたたび、 ── 呈子ヲ中宮ト為ス という宣下をみた。 忠実の子煩悩ぼんのう
はとどいた。頼長の意地は勝った。ひとりの忠通をのぞいて、父子の得意は、頂上といっていい。問題はもうないはずだった。 ところが、血みどろな、同族のせめぎ合いや、また、骨肉の戦いは、かえって、これを端緒とした。そして、保元の乱の口火を持ちながら、ましぐらに、自己崩壊と、世伝せでん
との、車の両輪を、迅はや めたのであった。
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世伝 | 代々伝わっていくこと。また、伝えていくこと。世伝御料など。
「せいでん」 とも。 |
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