〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-] 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
九 重 の 巻

2013/02/21 (木) あられ しよ (三)

「夜のうちに、謁を賜りたい。まげて、御出座を願うと、執奏されい」
忠実は、氷室ひむろ にも似る一殿の寒床に座り込んで、頭蔵人とうのくろうど や、宿直とのい の侍者が、何を言って来ても、がん として、かえりみない。
次の御座の間には、しよく もなく、簾は、暗く垂れ、夜は更けるばかりである。
死を決した人のような凄気せいき を彼の影に見て、夜殿の詰人つめびと たちは、触れるのもおそれた。
いつまでも、法皇の出御はなかった。いかにおまど いかが分かる。すでに御寝ぎよし にも入らるべき時刻なのだ。とはいえ、彼が、寒夜に床に座している姿を思われては、おん夢も安らかに結ばれようはずはない。美福門院なる無二のお方があられるにしても、その女院よりはお古い皇后高陽院の実父であり、いわば法皇には外舅がいきゅう にあたる忠実である。お弱りになったのは申すまでもない。
ついに、お会いになった。── かねて美福門院から、くれぐれもと、ささやかれておいでになった、ある御注意をやぶって出御された。
「おお・・・・」 と、お姿を仰ぐとともに、忠実は、泣いて、不覚にも、幾度となく、水洟みずばな をすすった。
訴うるところは、同じである。・・・・が、その夜の忠実には、決意があった。朝廷の一大臣を棄て給うか。この一老夫に死せよと らせ給うか。というひざ詰めの談判であった。たとい、多子立后のことは、先例に欠けるところがあるとしても、 げて ── と強引に迫って、やまないのである。
法皇は、かれより先に、お疲れを現した。根負けもし、情にも負け、ほとんど、自己の支えを、お失いになったらしい。
「忠通に、委せてある。今から、忠通へ使いを遣わし、まいちど、忠通の意見を問おう」
と、藤原朝隆ともたか を召されて、下問の手紙をさずけられた。そして御自身は、その返書の至るを待たずに、にわかに、夜殿の上達部かんだちべ たちに、車駕しゃが を命ぜられ、夜をおかして、竹田の離宮へ、御幸されてしまった。つまり逃げてしまわれたのである。
一方。
使者の朝隆は、馬をとばして、摂政家の門をたたき、何事が起きたかと、驚き顔の忠通に会って、委細を話した。
「法皇の御胸に伺ってください。今は、御心ひとつです」
ことここに至っては、忠通はもう、法皇から押しつけられているものを、法皇の方へお戻しするしか、道はなかった。
「先例にこだわるなく、法皇がお許しあれば、それまでのことです。なんぞ、忠盛がそれを妨げましょう。即日にも、宣下を議します」
朝隆は、彼の答えを持って、すぐ仙洞御所へ引っ返した。── が、鳥羽法皇は、すでに、そこにはお在さない。
で、ふたたび、馬にムチを打って、霰に けてゆく白い道を、安楽寿院の離宮へ急いだ。

※上達部
「かんだちべ」 「かむだちめ」 ともいい、太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・三位以上の殿上人と四位の参議。公卿。雲上人。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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