〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-] 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
九 重 の 巻

2013/02/21 (木) あられ しよ (二)

冬、十二月に入って、彼は、かさねて、寒夜に、すずり を洗い、心血を注ぐ思いを込めて、法皇、ならびに美福門院へのぼ す書を書いた。
その文章は、さすがに、切々と、読む人の肺腑はいふ をえぐるような辞句につづられていた。もし、この奏事が成らなければ、左府頼長は、遁世とんせい を誓っています。齢、七旬をこえて、一愛児を失わんとしているこの老父の白髪は急にふえています。この上、宣下絶望となれば、おそらく、一夜の生にも耐えますまい。── 纏綿てんめん として、血涙そのもののような文字である。
しかも、法皇、美福門院からの沙汰は、依然として、
(摂政忠通、先例ヲカンガ フルモ、コレ ヲ得ズ、チンマタ 、裁ク所ヲ知ラズ)
であった。
── 年は、終わろうとする。
十二月の冬日は早い。
もしこのまま、正月に入ったら、万事休すである。宮中、一院、新院の参賀式日に、公卿社会は衣冠を解く間もない初春の行事に追われてしまう。忠実は、ふたたび、悲壮極まる心を抱いて、もう年暮くれ も押しつまった十二月の末、家司けいし家人けにん雑色ぞうしき雑牛飼童うしかいわらべ までを、おびただしく召し連れ、そのまま鳥羽院へ、まっすぐに、牛車をやった。
牛の足である。吐く息も、まっ白な、朝早く宇治を立ったが、三条東の院の御所にたどり着いたのは、もう夕方であった。
おりふし、仙洞せんとう の大庭は、 て返った地に、ばらばらと、あられ が降って来て、北面のかがり のほかは、灯影もない大殿廂おおとのひさし を、しぶきのように、たばしる白い細粒の音に煙り発った。それはまた、忠実の心を、氷刃のように ぎすました。
しかし、車から降りた彼の影は、終日の疲れに、さすがに、蹌踉そうろう として見えた。
にわかに、召次所めしつぎどころ遠侍とおざむらい たちの声々が駈ける。しとみ を揚げ、妻戸つまど をひらく。その寒々しい金具のきしみや、灯迎えなどの人影のうちに、彼の姿は、仙洞の廊を渡って、さらに奥深い所へ消えこんで行った。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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