月をこえ、日をかさねても、問題は、一歩の変化も示して来ない。 頼長の焦躁
は、彼を盲愛する老父の眼め に、辛つら
く映る。忠実は、その長い貴族生活の体験から案じて、 「事態は、何やら、おもしりくなく、切迫している。ここで、怠ってはならぬ」 と、頼長を励はげ
まし、自身も、ついに思い切った行動に出た。 美福門院びふくもんいん
へあてて、忠実から、直々じきじき
、書簡を献じたのである。 女院は、あくまでも、法皇のうしろにあった、この問題には、感知しないようなお立場のあった。それが忠実の直接交渉により、ここに、何らかの、意思表示を示さなければならないような羽目になった。 数日の後、答書が、降った。 法皇、および、美福門院の答書、同時に
── であった。 しかも、内容まで、同じなのである。文は、簡にして明。 (是非は、摂政ノ任タリ、一ニ摂政ノ処分ニ委ス) これはほとんど同日ごろに、忠通の方へは、少納言ノ局から、極秘の文書で、法皇の御ご
諭告ゆこく があった。 (忠実父子ノ請ヒに依ル、多子立后ノ事ハ、宜シク、先例ヲ、審ツマビラカ
ニシ、慎重ニ勘考ヲ要ス。カリソメニモ、カルガルシク、宣下アルコトナカラン) 忠実が、美福門院へなした最後の一策は、こうして、まったく逆効果を招いてしまった。 「・・・・疲れた!」 敗北を感じた下から、忠実は、さすがに、七十三歳のみだれた吐息をついた。 「いちど、宇治へもどって、とく、思案をかえよう」 かれは、なお、頼長に
「あきらめよ」 とは言わなかった。悄しょうぜん
然、牛車の覆おい の内に、病人のような老躯ろうく
を横たえ、宇治へと、揺られて帰った。 すると、それから余り非も経たないうちにである。 呈子しめこ
は、正式に、摂政忠通の養女に移され、なお即日、呈子を従三位に叙せられたという沙汰さた
が聞こえた。 悪左府頼長は、すぐ宇治へ来て、憤然と、そのことを、くり返した。 「甘すぎます。父君は、余りに兄へ甘すぎる。これをもっても、兄の肚はら
は分かるではありませんか。兄は口先では、夜も眠れぬとか、板ばさみの苦衷を察してくれなどと、しおらしげに申しておるが、何ぞ計らん、呈子を擁して、多子の立后を、蹴落けおと
そうとしている者です。わたくしたちの、競争者です。騙たばか
られていた上に、またも騙られたのだ。・・・・なんたる肚ぐろさか」 「わしにも、決意がある。よろしい・・・・。断固と闘おう。じゃが、頼長よ」 ぽろぽろと、忠実は、急に、涙を垂れ、子の手を握って、なぐさめた。 「宇治へ帰ってから、わしはお汝こと
のために、加茂、石清水、春日の神々に、昼夜、祈念しておるが、近ごろ、たびたび吉夢を見るぞよ。所願は、かならず貫ける。さいごは勝つ。余りには、悲しまぬがよい」 事実、忠実はそれからも、終日ひねもす
、持仏堂じぶつどう へ籠こも
ったきりであった。さらに家人けにん
を分けて、祖先の廟びょう を始め、加茂、春日、稲荷、梅宮、大原野、吉田、熊野、石山寺、六角堂、青蓮寺、醍醐寺などの社寺に、祈祷師きとうし
を立て、貨財を供進ぐしん して、多子の立后を祈った。 |