〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-] 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
九 重 の 巻

2013/02/21 (木) ぼん のう ぐ る ま (四)

そこで、経宗は、次の日、忠通を訪れた。
忠通も、ひがんでいた。何よりは、老父の偏愛による冷たさである。また、弟の頼長が、あちこちで、忠通を誹謗ひぼう していることも聞こえている。ひとの苦衷や立場は、何も思いやらず、ただ我意と権勢欲にばかり燃えている骨肉たちが ── 骨肉だけに、なおさら、厭悪えんお されて、たまらない。東三条へ顔出しするのも知ってはいるが、相見るのも今はいやだと言う感情の殻の中に、耐えているところだった。
経宗は、愚痴の聞き役にされた。しかし、常識家で温雅な風もある忠通だけに、愚痴のあとは、涙すらうかべ、経宗のすすめにまかせて、やがて、東三条亭に、老父の忠実を見舞った。
その一夕は、むつ まじかった。
忠通は、平和な気持で帰館した。そして、
次の日、老父と誓ったとおり、鳥羽院に登殿して、法皇に謁し、あらためて、忠通から伏奏した。
「どうか、老父忠実の切なる請いを、 れてやってください。さもないと、臣は、父には不幸の子となり、舎弟からは、肉親をあざむいた冷血な兄だとうら まれます。ひとたび、骨肉の相克をかもすと、火宅の思いで、夜も眠れません。顕栄、何かあらんです。 ── 忠通は何も欲しません。ただ、老父の意がかなえば、終生、御鴻恩ごこうおんきも に銘じて忘れますまい」
忠通は、自分の言葉に、自分の感傷を かれて、ついに、君前も覚えず、潸然さんぜん と、涙の中に、ひれ伏してしまった。
法皇は、終始、お口をとじておられる。ふと、忠通の姿には、お目を らされた。そしてなお、黙しつづけ、わずかに、御座を離るるにあたって、
「いずれ」
と、仰っしゃっただけで、立たれてしまった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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