〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-] 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
九 重 の 巻

2013/02/20 (水) ぼん のう ぐ る ま (三)

「このことが、成就じょうじゅ せねば、宇治へは、帰るまいぞ」
忠実は、悲壮な決意を、左右にもらした。
とても、すぐには、解決を見がたいことが、上京即日に、分かったからである。
以来、東三条の亭に泊り、十数日も、滞京いていた。そして、しげしげ鳥羽院へ参稿候し、幾たびか、法皇にもえつ し、上書もつづけた。主意はただ、
(── 願ハクハ、直チニ、立后ノ宣旨ヲ、多子ニ降シ給ヘ)
という奏請に尽きている。
法皇は、ほとんど、困惑され、時には、忠実の不意の参候に、周章うろた える御様子さえ仰がれた。
ために、御不予をとなえて、賜謁を避けられたり、答書は、後刻、少納言ノ局へ、託すであろうと、一時のがれを仰っしゃったり、いたずらに、日ばかり過ぎて、とかく忠実には、ごう が煮えるばかりだった。
そんなところへ、ある日、夕顔の三位が、東三条へ、ひょっこり、ご機嫌伺いにと、彼を訪ねてきた。
「見えたか、経宗」 と、忠実は、ちょうど、やり場のないもので、腹いっぱいのところだったので、頭から、言ったものである。
「都は、たぬき 、むじなの、集まりか。近ごろ、怪態けたい なワナに、頼長を陥れたことよ。おこと なども、一つ穴の、むじなであろうが」
滅相めっそう もない」 と、経宗は、以後の不さたと、今度の事件を知ってからの、自分の苦衷くちゅう を、るると述べた。
「──すぐ伺おうと思いましたが、いあたずらに、詰めよせても、お館を物々しげに、見せるのみで、世間目によろしくありません。ただ、ひそ かに、かような異変の起こりが、どこの何人の策略に出じるものかと、知りたいと思い、それが突き止められたら、おわびに参じて、いささか、御憂慮の万分の一でも、お慰めしたいと心掛けていたわけです」
「ふうむ。いつもながら、かしこ げにいうの。では、おこと は、その策謀が、たれから出たと知ったのか」
「このたびのことたるや、もとより、法皇の御本意でもなく、なおさら、法性寺殿 (忠通) のお望みでもございません。・・・・申さば、美福門院、お一方の、おせまい女ごころからと、思われます」
「・・・・が、のう経宗」 と、忠実は、一応の納得は見せながら、なお不満そうに 「── 忠通に、何の邪心もないとは、どうして言えるの。かれに、やましい点がないならば、なぜ、目と鼻の先に来ておる老父に、一ぺんのいたわ りにも、顔を見せぬであろう? わしは、疑う。── かれも我が子。決して憎むではないが、 に落ちぬことではあるぞよ」
「いえ、いえ。近ごろの、御心痛は、見る目も、おいた ましいほどで、あわれ、法性寺殿には、いまに病み伏し給わねばよいがと、蔭ながら、お胸の悩みを知るほどの人びとは、みな、お気の毒に存じあげている程です」
「それよ。人には、さも殊勝しゅしょう げなてい をなして、よく同情されるのが、あれの昔からのさが というもの。頼長とはうらはらなのじゃ。──思うてもみい。忠通の夫人おく は、呈子しめこ の叔母ではないか。かつは、美福門院とも、日ごろから親しゅうしておるに違いない。多子が、行く末、主上のお后たるべき御内約のもとに、女御代に入ったことなど、ほかに、たれの口から、女院のお耳へなど入ろうか」
経宗は、口をつぐんだ。なるほど、疑えば切りもなく疑えるものと思う。猜疑さいぎ による誤解とは分かっていても、忠通の弁護にまわることは、いよいよ忠実を怒らせるに過ぎない。そして自分までもが猜疑の対象になるおそれがある。 かず、この上は、忠通の心をなだめて、なんとか、忠通の車をいちどこの東三条亭へ向けさせるにかぎる。そして、老父、兄弟が、親しく会うて、話しあうことだ。自分に出来て、怪我けが のないことは、その仲介役だけだと考えた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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