〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-] 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
九 重 の 巻

2013/02/20 (水) ぼん のう ぐ る ま (二)

都に近い宇治にいても、その頼長を、半月も見ないと、風邪かぜ でもひいたか、また、酒でも飲み過ぎたかと、幾歳いくつ になっても、子を子どもに思っているこの老父は、今、眼をまろくして、突然な、頼長の訪れを、いぶかった。
「どうしたのじゃ、頼長、車にも召さいで、騎馬駈けとは。・・・・暁の狩猟かり にでも出て、立ち寄られたか」
「狩猟どころではありません。残念です。頼長は、まんまと、あざむ かれました」
「た、たれにの? ・・・・ 欺かれたとは、何事うぃか」
「多子の儀です。立后の約束は、反古ほご にされました。近く、中納言伊通これみち のむすめ呈子しめこ が、兄の法性寺殿の子として、入内されることになりました」
「なに、忠通が、呈子の親となって、呈子を、入内させるとかよ? ・・・・そ、それは、たれが申したぞ」
「人も、申します。法皇も御書をもって、わたくしへ、りよう せよと、仰せられました。黙っているのは、兄だけです。法性寺殿だけが、この弟へ、知らぬ顔です」
頼長は、早口に、事実を、話した。
話の筋は、ありのままを告げたにすぎない。けれど、頼長の感情は、それに脈を たせた。まな ざししからも、憤怒を放つ語気であった。── 日ごろですら、ここへ来ると、無意識に、末子の甘え癖が出て、何がな、老父の痩躯そうく から、乏しい、燃え残りの愛情を引き出して、その盲愛に浸らないでは、あった様な気がしない大人なのである。
「そうか。ああ、それとは、わしも思い及ばなかった」
忠実は、長嘆して、眉雪びせつ の下の、うすいまぶた の皮をふさいだ。しかし、頼長のしお れ方を見ると、強いて、生命力をかきたてるように、肱を張っていった。
「ま、落ちつけい。わしにまか せい。・・・・忠実は老いてはいない。子のため、まだまだ老いてはならぬとしておるよ。仙洞せんとう へまかり出て、直々じきじき 、奏上のうえ、黒白を明らかにしてみせる。何人の策謀であれ、打ち砕かいでおこうか。頼長よ、わしも、きょうのみは、こま の背で行く。父子、口輪を並べて、急ごうぞ」
その日、ただちに、忠実は、頼長とともに、京へ出た。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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