〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-] 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
九 重 の 巻

2013/02/20 (水) ぼん のう ぐ る ま (一)

忠実は、よわい 、すでに七十三である。久しく、宇治の平等院の別荘に退き、門を閉じて、隠居とは称しているが、今なお、藤原氏中、第一の長老として、隠然たる勢力を、失っていない。
白河法皇に仕えて、白河に譴責けんせき されて一時身を退 き、また鳥羽院に眷顧けんこ をうけて、いつしか、鳥羽法皇からも、うとうとしく遠ざけられている。
けれど、その家系は、皇室に次ぐ代々の外戚がいせき であるし、現に、鳥羽の皇后高陽院は、忠実のむすめ である。── しかも、彼の前官は、関白、内覧、太政大臣、従一位、官門に牛車をゆるされ、人臣の極を経て来ているので、老いて都の外にこそ住め、その存在はなお、落日の荘厳ともいえるものがあった。
風貌ふうぼう もよい。音声おんじょう は、清朗せいろう である。大人たいじん の風といおうか。
薙髪ちはつ してからの法名は、円理という。
だが、世の人は、相国しょうこく といったり、富家殿とみのいえどの といったり、また単に、宇治どのと呼んだりしている。
訪う客は、多いが、克明に、毎日、日記を書いている。若いときから、この日課だけは、欠かした事がない。
── こうした、忠実であった。人間として最上の境遇を得、晩節ばんせつ も遂げ、世からも、一門からも、元老と見なされている人物ではあるのに、ただ一つ、この人にして、この人らしからぬ、盲点があった。
子に甘いのである。子供のこととなると、まるで、凡俗の親ばかと、なんら変りがない。
その子供も、悪左府の頼長に限っていた。
子は、男子としては、二人だけで、長兄は、摂政関白の忠通、次男は、左大臣頼長。
そして、年からいうと、兄忠通が五十四歳、弟頼長が、ことし三十歳。二人は、かなり離れている。
顔も、似ていない。兄は、丸顔で白く、弟は面長で、長身、どことなく、骨ばった体つきである。兄は、女親に似、弟は、男親に似たものらしい。そして、末子でもあったし、忠実は、この頼長が可愛くて、たまらないのであった。
悪左府 ── と世間が言えば、
(兄とはちがう。兄の忠通には、花作りなど、させておけ。頼長は、すこし、血の気に富む男。あれに、時と位置とえお、得させたら、兄よりはかならず、人間の政治をたるがのう)
と、かえって、その “悪” なる異名すらが、いと しいらしく、人にいう、
また、頼長が、経書けいしょ にあかるく、博学であることも、この親の、人に誇る自慢だった。
ところが、父子おやこ でも、気の合わない、異例もあるものか、これほど、末子の頼長には、盲愛をもつ忠実が、兄の忠通に対しては、まったく、冷厳な父でしかなかった。
世評はというと、この父が、二子にもっている評価とは、あべこべで、忠通の人望は、すこぶるいい。悪左府とは、比較にならない。
それも、心外らしいのだ。忠実は、どうかすると、忠通へ面と向かっても、
(頼長は、お人よしよ。お許は、肚ぐろよの)
と言ったりする。
かつて、鳥羽殿の公開の席でも、忠通が、摂政関白として、当然、上座にすわろうとしたところ、忠実が、断じて、息子の下にすわることを、がえん じなかったことがある。人びとは、忠実が親ながら、忠通の顕栄をねた んだものとささやいたが ── しかし、彼の心理は、そうではなく、実は、頼長の気持が彼を って、当りちらせたものだった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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