呈子は、権中納言伊通
の女むすめ ではあるが、はやくから、美福門院の手に養われて来た。 女院からは、わが子のように、いつくしまれ、、事実上では、女院の養女とかわりはない。 さきに、頼長の養女の多子が、女御代に挙あ
げられたことでは、美福門院から、べつに御苦情も出なかったのに。 ── が、問題は、その後である。 多子には、将来、立后の内約があり、その条件の下に、しばらく女御代におかれたという事実が、やがて、美福門院の知るところとなって、法皇は、その軽率を、いたく女院から責められた。 「わたくしは、母ではございませぬか」
と、女院のお立場は、あきらかに強い。 「── なぜわたくしに、たとえお一言ひとこと
でも、御相談あそばしてくださらなかったのでしょうか。ほかならぬ、主上の御生涯にわたるお后きさき
のことですから、よそ眼に見過ごしておくわけにもまいりませぬ」 女院と法皇の間には、会われるたびに、おん縺もつ
れがうかがわれ、結局、法皇としては、心にもない豹変ひょうへん
であったが、主上の母なるお人の主張に添うしかなくなったわけである。 要するに、美福門院としては、すでに、とくからお胸のうちで、 (呈子しめこ
をこそ、主上の后に) と、ひとり決めていたに違いない。 ただ、主上はまだ、余りに幼く、そして、呈子はすでに、十九という妙齢であったがため、時を待っておられたのである。 待てない時が、ついに来た。思わぬ強敵が
── しかも悪左府頼長と、宇治の相国しょうこく
(忠実のこと) などを背景とし、法皇の内約まで取って、立ち現れるに及んでは。 彼女としては、躍起にならずにはいられない。そして強硬に、法皇をうごかし奉ったものの、美福門院側から言えば、決して、横車ではなく、法皇の軽忽けいこつ
なるおん過ちを、早く、正しきに戻したのみ、ということであろう。 しかし。── これは、思うこと、意のままにならぬはない、としている人の考え方であった。
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