〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-] 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
九 重 の 巻

2013/02/19 (火) りつ こう (一)

同じ年の、秋の末ごろ。
忠通は、前年落成した、法性寺ほっしょうじ へ、参詣さんけい していた。
むかし、藤原道真が、法成寺を造立し、世に、法成寺関白とうた われたそれにならって、彼も、藤原氏の永世祈祷きとう のため、雄大な私寺を建立こんりゅう し、 「法性寺」 とまづけ、かたわらの別荘ににもいたので、近ごろ、忠通を呼ぶのに、 “法性寺殿” という人が多い。
そこへ、にわかに、鳥羽院からの、お使いがあった。
法皇のお言葉として、夜に入るも苦しからず、早々、昇殿あるべし ── とあった。
「何事のお召しにや?」
と、忠通は、法性寺の別荘に泊る予定を変えて、扈従こじゅう随身ずいしん の列に、松明たいまつ をとぼさせ、急遽きゅうきょ 、くるまを鳥羽院へ急がせた。
夜は、初更しょこう を過ぎていたが、法皇には、すぐお座所にわたられ、人を遠ざけて、近々ちかぢか と、、忠通に会われた。
呈子しめこ を、ぜひ、入内させなければならぬが、こう のはからいで、いように、思慮をめぐらすてくれまいか」
つねになく、おん声音こわね が弱い、内心の御当惑が、うかがわれる。
仰っしゃる下命そのことの、万、ムリなことを、御承知なのだ。
忠通の、眼にも、ありあり、当惑がうかんだ。── が、どうして、こんな唐突とうとつ な、しかも、御自身で御自身の前言を破るような仰せ出をなさるのか ── 忠通には、わかっていた。法皇のお姿と、美福門院びふくもんいん の影とが重なって、彼にはみえる。
さき の、多子の君を、女御代のままおいて、権中納言伊通これみち の息女の呈子を、新たに、入内させよという、御意でございますか」
こう、念を押すにも、忠通は、口が渇いて、きれぎれな糸でも吐くような声になった。
「・・・・む、む」
と、ちと、お苦しげに、うなずきを見せられたが ── しかし、そこは絶対なる位置におわすお方だけに、ムリとは思われても、不可能とはお考えになる理性を持たない。むしろ、忠通の、温厚ぶりから来る沈み方を叱咤しった 遊ばすように、仰っしゃった。
「何とか、なろうが、いや、取り急いで、運んで欲しい、公の才覚で」
忠通としては、ただこれ命と、伏してお受けするほかはない。
「・・・・ならば。こう、いたしてもよいかな」
法皇も、策士であられる。すでに、叡慮えいりょ のうちでは、さまざま思いをめぐらしておられたらしい。
「たしか、公の夫人は、呈子にとっては、叔母君に当たるそうではないか」
── これも、美福門院から聞かれたに違いない。忠通は、そう思いながら、御諚ごじょう のとおりです、と答えた。
「よい都合つごう ではあるまいか。入内にさきだって、呈子を、公の子としておくがよい。 ──摂政関白の女として入内するなれば、ふしぎはない」
忠通は、深更しんこう に、院を退った。たくさんな松明の火の列に囲まれ、無月のやみ夜をゆく、摂政車のうちに、彼は、冠も重たげに、物思いのあぎと を、ふかく埋めていた。
呈子しめこ 。── その呈子を、ひどく愛しておられる美福門院。
主上近衛の御母后ではあり、かつは、法皇の殊寵しゅちょう と、群臣のおそれを、一身に集め受けている女院の御存在を、彼は、この夜ほど、大きく、まばゆく、またそらおそろしく、覚えたことはなかった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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