〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-] 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
九 重 の 巻

2013/02/19 (火) まり (二)

「ふウン・・・・。多子をな。・・・・女御代にとか」
案のじょう、頼長は、鼻を鳴らしただけである。興もなげな、返辞に聞こえる。
にやにや笑って、いやとも、よかろう、とも答えない。
これは、まずいかな? ── と経宗は、話をかえかけた。
しかし、かえた話題にも乗って来ない。経宗の顔つきを読みとるように黙りつづける。やはり主題の話に、彼も、心では、ねばっているに違いなかった。
「そうだのう? ・・・・急か。急を要するのか。・・・・法性寺殿ほっしょうじどの (忠通をさす) への御返答は」
「とも、仰せられませぬが、法皇にも、お心待ちでおわせられましょうし」
「── 考えておこうよ」
ほう りだすように言ってから、
「なぜまた、かかる大事を、法性寺殿自身、頼長へ会うて、直接、話し合おうとは、せぬのじゃろうか。わしには、分からんよ、あの兄の腹蔵は」
「いえ、御肉親としては、一座の君 (摂政関白のこと、忠通へも敬称) にも、御同様な思いではおられましょうが、何しろ、お忙しいのと、また、摂政として、おおやけ がましく、御談合あるよりは、まずわたくしのような者をして、こちらの御存意を、忌憚きたん なく、伺わせておいてからという、含みのあるお考えかと拝されますが」
「含みか、何か知らぬが、じたい、わしは、兄のような、ネチネチは嫌いなのだ。腹を割って、こうと申されれば、応と、即座にも答えるだろう。なまじ、おこと など差し向けて、はら さぐりなどは、おもしろうない」
「さ、そこです。竹を割ったような御気分で、すがすがと、仰せられませ、わたくしはただ、花の使い、お胸のとおりを、一座の君へ、お伝えいたしますれば」
「うム。言ってもよい。申そうか」 頼長は、幅の広い胸を、押し出すように になって ── 「直々じきじき ならでは、いうべき儀でもないが、宇治の父君も、目をかけておるおこと なれば、伝えさせてやる」
「ありがたく承ります」
「わしの申すままを、法性寺殿ヘ、申し伝えろよ。寸言も、ゆがめてはならぬぞ」
「仰せまでもございません。── して、御内意は、いや、何ぞ条件でも」
「さればよ。── 多子ただこ を、女御代に参らすは、承知せぬでもない。しかし、天皇御成人の後は、かななず、多子をして、入内立后じゅだいりつこう させるという確約をして欲しい」
「ごもっともの儀と存じます。さっそくにも」
「よいかの、ただの女御代にとどまるなれば、おことわりする。行く末、多子を、皇后にと、かたく約さるるなれば、応じよう。── こう言うのだ。明白に」
頼長は、二度まで、念を押した。
その後で、経宗は、大いに、もてなされた。頼長も、長酔して、大機嫌きげん になり。宴のあいだに、奥へ行って、このことを、夫人の幸子さちこ にも、さっそくささやいたらしい。おおうべくもない一門の喜色が、やがて、管絃かんげん の音になって、東三条の亭にあふれた。
── しかし、経宗が、ひそかにでも、垣間かいま 見たいとねが っていた多子は、姿はおろか、琵琶の遠音とおね にも、うかがえなかった。
しかし、彼の使いは、功を奏した。
忠通は、頼長の要求に、驚きはしなかった。
しかし、事は重大すぎる。一存では決すべきではない。彼は、鳥羽法皇の叡慮えいりょ を仰いだ。法皇は、案外、お気安く許された。多子の万人に優れている美質を、忠通以上にも、つとに知悉ちしつ しておられるらしい。
こうして、女御代のことは、決定した。
やがて、皇后となるべき約束のもとに、しかし彼女自身は何も知らずに、多子は、宮廷の一女子となった。
頼長の得意は、いうまでもない。光彩は門にみち、家福はえん にあふれる東三条亭であった。── 宇治の別荘にいる、兄弟の父忠実も、賀状のうちに、老来第一のよろこびに会えりと、家門の繁栄を、祝福してきた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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