〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-] 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
九 重 の 巻

2013/02/19 (火) どう じょ ぞう (三)

しかし、ここに、彼にとって、大きな当惑があった。
その多子は、彼の実弟 ── 悪左府頼長の養女であることだった。
頼長の妻の幸子さちこ は、徳大寺公能の妹である。公能の一女が、頼長夫妻にもらわれて、東三条亭の深園に養われていたのは、何の不自然ではない。
むしろ、忠通の考えを、実現するには、好都合なわけである。
ところが、人にもかくれないほど、忠通と頼長とは、もともと、至って兄弟仲が悪い。兄弟そろって、朝廷の重職を奉じ、三公の枢機にあずかりながら、政治上の意見でも、かつて、心から一致したというため しがない。
とはいえ、忠通は、それをもって、女御代選定の公正を、ゆがめようとする程、佞奸ねいかん ではなかった。また、意中のことは、法皇にはもちろん、陛下の近親にもはか って、同意を得ているので、ただ、この内交渉を、弟の頼長へ、どういう形で申し入れるがよいか? ── それを悩んでいるだけである。
(あの、つぬじ曲りの頼長のこと、兄の自分から話したのでは、吉事と、はら ではよろこんでも、なんのかのと、だだをこねて、また、手こずらすに違いない)
忠通が、おそれるところは、それだった。
そこで、彼は、考えついた。
この内交渉の使いには、夕顔の三位にかぎる。経宗なれば、心ききたる男だし第一、自分たち兄弟の父忠実から、深く信用されてもいる。かつは、その忠実の宇治の別荘へも、東三条の頼長の亭へも、親しく出入りしているので、相互の間を、円満に説きつけるには、これ以上の適任者はない。
── そういう思案が胸にあったところへ、おりもよし、今日の蹴鞠の会だったのである。
睡蓮すいれん の紅白をわたる微風のほか、この池亭には、心をわずら う人影もない。
忠通は、意中のものを、余さず、彼に語ることが出来た。
「御辺ならでは、と思うての頼みぞ。ひとつ、左府どの夫妻へ、そっと、話し入れてくれまいか。── 多子を、今上の女御代へ、さし出す儀を、つつがなく、拝受するようにとな。もっとも、おおやけ には、左府どのが、内諾と、きまったうえ、あらためて、手続きを運ぶことは、もちろんだが」
「よく、わかりました」
経宗は、よろこんで、引き受けた。彼の才気として、易々たる使命に思われたばかりでなく、何か、自分の栄達も、将来に、約されるような気持まで、介在していた。
「さっそく、東三条殿をお訪ねして、よくお話もし、また、お口ぶりによっては、宇治へも、伺って、よろしく、おすすめいたしましょう。ほかならぬ、御吉事ですから、おそらく、ご異存などは、ないこととは、思われますが」
「いやいや、そこが、気むずかしい相手と、思うてくれただよい。・・・・ゆめ、よろこびごとを、もたら すような顔してなど、参られなよ。とかく、逆に出たがる左府殿でな」
「ご気性は、よく存じあげておるつもりです。一面、御心得も早く、うんと仰っしゃれば、極めて、からりと、磊落らいらく なお方ではありますから」
後日の返事を約して、経宗は、池亭を退がった。

※ 三公
太政大臣・左大臣・右大臣のこと。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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