〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-] 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
九 重 の 巻

2013/02/18 (月) どう じょ ぞう (一)

“夕顔の三位さんみ ” といえば、藤三位とうのさんみ 経宗つねむね のことである。高辻、夕顔小路に、、家があった。
はじけ・・・ た若公家である。
公卿だから旧態とは、いちがいにいいえない。公卿はなお、政治、経済、文化の中枢をしめ、知性人の淵叢えんそう は、公卿社会のものと言っても、過言ではない。
彼などは、典型的な、その中での、新人はだ であった。才学に富み、和歌、蹴鞠けまり 、音楽にも長じ、人あたりもよく、言葉の端や、服飾にも、怠りなく、感覚をきばって、時勢の動きにも、なかなか、鋭敏なのである。
その経宗が、侍従ノ大納言成道なりみち の、蹴鞠の会に、招かれた日のことだった。
大勢の来賓らいひん とともに、その桟敷さじき で、競技を見ていると、摂政家野の随身が、そばへ来てささやいた。
「おそれいりますが、そっと、あちらの亭まで、お顔を、おかしくださるまいか。──主人の忠通ただみち 公が、おりいって、何やら、御意ぎょい を得たいとのことで」
「え。わたくしに。・・・・では、すぐ伺いましょう」
経宗は、席を抜けて、随身のあとに、ついて行った。
摂政関白忠通は、ふっくらと、寛容な風のある、貴人らしい貴人であった。実弟の悪左府頼長とは、どこ一つ、似ているところのない、対蹠的たいしょてき な人がらだった。これほど似ていない御兄弟もめずらしいと、人は言うのである。忠通の温和を語る者は、かならず頼長の傲慢ごうまん を、引き合いに出し、悪左府の男性的な長所をいう者は、また、かならず、忠通の女性的な性格を、何か、もの足らないように言った。
いま、経宗の姿を見ると、そも忠通は、
「イヤ、恐縮恐縮」
と、よりかかっていた柱から、背を離して、
「せっかく、遊びのおりを ──」
と、彼へも、円座をすすめ、いつもながら、少しも、権威ぶる風がない。
「思いつつ、いつも、ご無沙汰ばかりを・・・・」 と、経宗は遠くに平伏して、長者のくつろぎに、すぐ れたりは、しなかった。
「今日は、よそながら、お姿を拝せるものと、楽しんでおりましたが、お召しいただくとは、望外でした。・・・・なんぞ、御用でも」
「そう・・・・。実は、折り入って、御辺ごへん へ、頼み参らせたいことがある。夕顔どの、ここは宮中ではない、もそっと、おゆる やかに、寄っても給もらんか」
忠通は、そばにいた家臣たちに、目くばせした。人びとは、意をさとって、すぐ席を立ち、渡殿わたどの妻戸つまど をしめて、遠くへ退 がった。
池の中の、離亭はなれ である。ほかに、耳はない。
水には、睡蓮すいれん が咲いていた。久安五年の夏六月の昼だった。

※ 淵叢
淵は魚が、叢は鳥獣が集まるところから、物事の寄り集まるところをいう。 「学問の淵叢 (藪) 」 など。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
Next