〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-] 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
九 重 の 巻

2013/02/18 (月) 美 し き 家 族 (六)

らんらんと、双方のひとみ を、敵の武器へ向けて、闘志にふくれ上がっているのは、灰色のさし毛をもった老狐である。これはおす であろう。彼の妻は、その良人おっとかば われながらも、地につめ をたて、ともに、異様な低い き声を発しながら、清盛の弓の手へ、恐怖にみちた眼をすえている。
めす は、牡の老狐よりも、目立って せていた。
狼かとも見えるほど、肩骨はとが り、毛づやもなく、腹は薄く巻き上がっている。 ── が、よく見ると、その腹の下には、産んでからまだ間もない子狐を抱いているのだった。
「あ。親子だ」
道理で、逃げきれずに、踏みとどまったはず。子連れの狐であったのだ。
「三匹とは、望み以上だ。はて、どれから射止めようか」
弓は、弦に満ち張る力に、キュッキュッと、鳴った。
三匹の狐も、今は滅前と知ったらしい生命を、姿の輪郭に、ぼっと、りん のように燃やして、ふしぎなうめ き声を、のろ うように発した。
牡は、死へ直面した犠牲の勇を示し、牝も、総毛を逆だてながら、しかし、かなしげな本能に、ふところ深く、いよいよ深く、子狐をかい抱いているのである。
「ああ、あわれ。・・・・あわれや、立派だ。美しい家族だ。ヘタな人間よりは」
日吉ひえ 山王の神輿を射た矢も、ふと、この親子狐には、放つ勇気が出なかった。
おれのやじり は、いったい、何を求めようとして、この生き物を、追いつめているのだろう。
鎧。── 人のよりも優れた鎧をとか。
ばかな。
猫背ねこぜ の鎧師からまた違約をまじまれないという体面を思ってとか。
おろ か。おろ か。押麻呂が笑わば笑わしておけ。鎧は、何も人並みの物で悪いことはない。鎧が、人間を作るわけではなし、鎧が功をたてるわけでもない。
「ケチな根性・・・・」 と、彼は自嘲じちょう にゆすぶられた。
「野獣といえ、こうなったら、荘厳なものだ。慈悲、愛情、親和の権化ともいえる。もし、おれが老狐だとしたら。そして、時子や重盛が、こうなったとしたら? ・・・・。野獣においてや、こう美しい。おれにも、出来るかどうか」
彼は、やじり を、あらぬ方向へ向けて、びゅんと、放った。── もう宵空となっている星の一つを射たのであった。
ザザザザと、足もとから、一すじの野風が起こって、波のように消えた。ふと、見れば、親子の狐は、もういなかった。
その夜の帰り途。── 清盛は、鎧師の押麻呂の家をのぞいた。裏の破れがき から、垣越しに、屋のうちの灯と人影へ、どなっていた。
「おやじ。おやじ。生き皮など使うのは、もうやめた。なんの皮でも、間に合わせておけい。仔細しさい は、あとで びる。あす、屋敷へ来て、清盛を、わら うもよし、贖銅の罰なと何なと、申しつけてくれ」
にかわ の煮つまるあの特有なにお いが、外にまでわかった。むっくと、まろい背を、灯に動かした人影は、激した声音こわね とともに、
「な、なんじゃ。見合わせたと」
やにわに膠鍋をもって、板縁のはしまで、姿を見せ、
「そんな言い訳を聞こう約束か。おとといから今の今まで、わしは精魂を膠に煮込んで、手枕のまどろみもせず、ばかづらして、待っていたのじゃ。おお、日吉山王の神輿を射たのも、さては、その大たわけが、人見せに、やった仕業か。買いかぶったわ、安芸守どのを。── もう腹も立たぬ。たれが、見損うた人間のため、鎧など作ってくれよう。ことわるっ。こっちから真っ平じゃ。そこな野良犬め、食ろうて去れ」
沸いたままの鍋が、いきなり庭へ、たたきつけられて来た。異臭と、煙が、清盛の面を襲った。── が、清盛は、黙々と、それをうしろに、帰って行った。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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