押麻呂の見えた次の日である。清盛は、弓袋を解いて、手なれの一筋に弦
をかけた。 「時子は、どこにおるな」 廊を渡って、妻の部屋をのぞくと、侍女が答えた。 「奥方様は、きょうもお庭の機屋はたや
にこもって、御精を出していらっしゃいます。お呼び申し上げましょうか」 「機屋におるなら、呼ばいでもよい。おれの狩衣装を出せ」 彼は行縢むかばき
の野支度に、矢を負い、弓を持って、出がけに、庭の機屋へ立ち寄った。 この建物は、時子の希望で建ててやった十五坪ばかりのもので、二台の機織はたおり
機械をすえ、半分には、染物瓶そめものがめ
やら臈纈染ろうけつぞめ の工具やら、刺繍ししゅう
の台なども備えてある。 育児も見ながら、彼女は、童女のころ、宮中の更衣殿こういでん
で習い覚えた手工芸を、家庭でしていた。よほど心の合っている趣味らしく、織娘おりこ
もおき、妹たちも呼んで、好きな染色や図案が織物のうえに出るのをまたなく楽しんでいるふうだった。何よりは、世間にない、珍しい衣服を、われも着、子たちにも着せ、人にも分けて、批評されたり、歓よろこ
ばれるところに、歓びがあるらしい。 「時子。おれは狩猟かり
に出かけるが、信西入道どのへの手紙は、認したた
めて、部屋の小机へ、のせておいたぞ」 「ま、にわかな・・・・」 と、時子は、機はた
のそばを離れて、 「お供は、だれとだれを、召し連れていらっしゃいますか」 と、目をみはった。 「いや、ひとりだ。・・・・・幽居中の身、目立つのは、よくない」 「では、せめて、童わらべ
でも、お連れあそばしては」 「山深くはいるではなし、夕方には帰って来る。── だが、そなたから、信西どのの内室へお贈りする織物とかは、出来上がっているのか」 「ええ、染めも、刺繍ぬい
も仕上がりました。お目通しなされますか」 「いや、見なくてもいい。おれには、分からぬ」 清盛は、すぐそこを去った。そして、ひとり脇門から出て行った。 去年、院の集議で、自分に対する罪の裁定が論ぜられるに当たって、左府頼長の硬論に対し、ひとり藤原信西入道が、大いに庇かば
ってくれたということを後に聞いて ──清盛はひそかに、彼を徳とし、知己としていた。 時子が、丹精たんせい
を込めた織物を、その信西の妻の紀伊ノ局へ贈ろうということに、清盛も同意したのは、言うまでもない。今、出がけに、小机の上に残してきたと言う書状は、贈り物に添えるための礼状だった。 「はて、どこへ行ってみよう?」 洛内らくない
にも洛外にも、狐のいるはなしは、よく聞くが、さて、実際に弓を持って出かけてみると、秋の野末は、尾花の波ばかりで、影も見ない、あてもつかない。 その日、清盛は、深草あたりまで歩いたが、夕方、足だけを疲らせて、むなしく、戻って来た。
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