清盛は、毎日、退屈にたえなかった。 罪によって、贖銅
を科せられ、院の出仕を、一年止されたのだ。閉門の身なのである。 さしも、世論を沸かせた “神輿事件” も、年を越えると、うわさも薄らぎ、話題の中心人物は、六波羅ろくはら
の門を閉じて、久安四年の一年間を、夏も秋も、欠伸あくび
の中に、送っていたわけである。 軽罪でも、罪は家族にまで及ぶのが、そのころの習なら
いだった。父の刑部忠盛も、百日の謹慎をしたと聞くし、妻の時子の里親、権大夫時信の親族まで “放氏ほうし
” の罰を受けたという。 “放氏の罰” というのは、藤原氏の同族間の決議で、罪ありとする者を、藤原姓から追放する制度である。つまり姓氏の褫奪ちだつ
で、何年間と、限られるものもあるし、生涯、そのままの場合もある。 「ちょうどいい。── 以後は、舅御しゅうとご
もおまえも、平たいら を名乗れ、何も、藤原姓だけが、人間の戸籍じゃあるまい」 本来、重罪になっても、実は不服のないところだが、藤原氏のこの処置は、ひどく清盛を刺激したらしい。義弟の時忠へ、何度も余憤をもらしたことであった。 「自閥の守りに小心な貴族どもの肚はら
が見えすいておる。おれのような乱暴者の親類に、藤原氏と名のつく者がいては、将来また、どんな禍わざわ
いがふりかかるやも知れぬという警戒なのだ。そのくせ、おれが、叡山の大衆に、一泡ふかせた時は、蔭では、喝采かっさい
したりしている。・・・・公卿根性というのはこれか。これは、贖銅の刑より、閉門の罰より、不愉快な侮辱刑だ、わすれるなよ、時忠」 時忠の快活な性情は、清盛の幽居を、明るくしていた。彼の、話し相手として、いつも弾力のあるいい相槌あいづち
の響きを出す。自分に輪をかけたほどな乱暴もやるが、自分にはない好学なところもあって、記憶力はよく、慧敏けいびん
、博識、清盛も舌を巻く事がしばしばである。 ── 今日も、彼は、退屈のまま厩うまや
へ出て、退屈を知らぬ馬たちを、見まわっていた。どこかで、びゅるんっ、と、快い弦鳴つるな
りが聞こえる。── やってるなと、的場まとば
の方へ歩いて行くと、一すじの矢が、直線を描いて、的まと
の中心に、ぱんといい音を立てた。 「上手うま
いっ」 清盛が、こっちで、賞めると、射庭に姿を並べて、弓を斜めに構えた二人の大人と子供が、振り向いて、ニコと笑った。 今年十歳になった長男の重盛と、いつもその重盛に、弓の指南をしている時忠だった。 |