〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-] 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
九 重 の 巻

2013/02/17 (日) 悪 左 府 (五)

祈祷きとう 師も、祈祷の かないことを知っているようになれば、さすがに太腹ばところがある。山門の僉議せんぎ は、その後も、矯激きょうげき な怒号でくり返され、ふたたび神輿を奉じて、鳥羽院へ押しかけて行けとは、全山の声だったが、
「山門の不利だ。今は待て」
と、おさえたのも、この三人であった。
世論よろん に敏感なこの首脳たちは、石の雨に、庶民の反感を知ったのだ。また、この際に、園城寺勢力や、興福寺勢力の浸透もおそれていた。攻勢を、警戒に転じ、ただ、院の処置を見守っていた。
清盛への懲罰は、あまりにも軽すぎる。形式だけの処分にすぎない。これでは、山門の面目は、まるつぶれだ。── と、余憤の再燃が見えたとき、果然、少納言信西の扱いで、
(── 加賀白山ノ廃寺ノ荘園ハ、請願ノ望ミニ任セ、叡山ヘ移管アル事、聴許アラセラレル)
という下文くだしぶみ が、通達された。
「鳥羽院には、味をやる政治家がいる」
山門側は、これをもって、一山の大衆を、ひとまず、なだめた。
なお、不平も多かったが、そのうちに、一山の座主ざす 行玄ぎょうげん を追い出そうと計る者と、行玄派との、内輪もめが起こって、自然、かれらの好争性も、しばらく、山外から山上の、自己組織の内へ、向けかえられた。

東三条の嘯月亭しょうげつてい は、さき の太政大臣忠実ただざね が、財と、風雅をこらした館である。
が、忠実はいま、宇治にいて、ここにはいない。
忠実の次男、すなわち、悪左府と聞こえの高い頼長が、別荘につかっていた。
「為義、今宵は、まだ酔わんな。・・・・まあ、このたびは、信西入道に、花をもたせておけ。時あらばまた、よい風向きも、巡って来ように。── そちには、気の毒であったが、ぜひもない。法皇のお胸も、初めから、実は、清盛に、肩持ちしておられたらしい」
河原の水につづく釣殿つりどの に、あるじ は、客を引いて、客より先に、満酔していた。── 胸のうつ を、虹のように、おもて に発して。
六条判官為義は、以前から、悪左府の気に入りだった。── というよりは、頼長の父、忠実の代からの、家人格けにんかく であり、家人けにん 扶持ぶち をもらっていた。
由来、この家門では、何となく、源氏びいきという風があった。白河院以来、不遇にある源氏武者への同情もあったし、また、為義の素朴なる老武者の人がらも、頼長は、好きだった。
「法皇には、すこし、平氏の忠盛父子にのみ、御偏愛がすぎておる。わずかな間に、父は刑部卿、子は安芸守だ。── それにくらべれば、和殿わどの など、いまもって、地下ちげ検非違使けびいし の判官。待つがいい。いつかは、源氏の子弟にも、よい月日に会わせてやるから ──」
日ごろから、頼長は、為義にいっていた。
清盛の今度の事件は、為義を世に出す絶好な機会と彼は見たのであった。感情的にも、忠盛父子を好いていない頼長は、法皇のちょう をさまし、平氏の擡頭たいとう をくじくの時は今なりとして、集議のたび、清盛の極罰を、主張しつづけていたものである。
不成功に終わった。── 不愉快でたまらない。そこで、為義を招き、なぐさめるつもりの酒宴らしいが、多くは、自分ひとり、痛飲していた。
「いや、その議なら、お忘れ下さい。陸奥守むつのかみ に任ぜられるなら、今でも、拝受したいと存じますが、ほかに、野望は持ちませぬ」
為義はいつも、それを言う。── ひいきはありがたいとしても、時により、悪左府の余にも、積極的なのは、迷惑にも思った。
彼が、陸奥守を望むわけは、祖父の八幡太郎義家以来、東北地方には、源氏ゆかりが多いからである。ところが、朝議では、その由縁ゆかり ある地方を、為義に持たせることは、危険だと考える。── 門に飼えば、家畜だが、野に放てば、猛獣になりかねないとする政策を、今も守って、変えないのであった。
※下文
昔、役所から出した命令書。平安中期から中世に賭けて広く行われた文書の様式
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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