ところが、ここにたった一人、彼に向かって、怯
むなく、反対を表示した者がある。 少納言藤原信西であった。 信西は、つい一昨年、剃髪ていはつ
して、入道したばかりの公卿である。入道以前の名は、通憲みちのり
といっていた。 左大臣藤原ふじわら
武智麻呂むちまろ を遠祖にもち、家がらは藤原南家の儒流だった。──
で、北家全盛の中央にあまり用いられず、久しく、日向守という、公卿にしては、低いところに、おかれていた。 しかい、彼の宏才博学こうさいはくがく
は、公卿中でも、比肩し得る者はなかった。定評は、はやくにあって、かつては頼長も、彼の門下に、教えを受けたことすらある。 けれど、儒流だけに、出世はおそく、鳥羽院に、あげられて、やがて、少納言ノ局にすえられたのは、もう六十近くになってからであった。それでさえ、待賢門院の侍女かしずき
、紀伊ノ局つぼね は、彼の妻であることから、女房の手づるによって成り上がったなど、陰口をきかれている。 しかし、なんと言われようが、彼には、才腕があった。大中納言に対し、少納言は、下官だが、局の職掌は、詔書、勅令の宣下せんげ
を司どり、内印外印ないいんげいん
の取り扱いから、大小の奏宣を通す枢局なので、よほど、実力もあり、人物も重厚でないと、勤まらない。 信西は、その局にあって、とにかく、重きをなしていた。──
頭を剃そ ったのは、ある陰陽師おんようじ
から、 (あなたは、剣難の相があるから、はやく出家を遂げられた方がよい) と、忠告されたためだが、彼自身は否定して、なき待賢門院の生前の御恩を忘れぬためだと、言っている。 その信西入道が、さいごの集議に、頼長の説に、反対して、言うには。 「いちいち、ごもっともには聞こえるが、左府どのの仰せは、そのまま、叡山の代弁をなすっていられるようにも受け取れる。おりあらば、山法師らの暴戻ぼうれい
を正し、彼らに、覚醒かくせい
を与えなければならないというお考えは、白河、堀河、鳥羽の三朝を通じ、なそうとして、なし得なかった難事でした」 こう穏やかに言い出して、 「それを清盛がしたとは、言いますまい。けれど、山門覚醒の大機会ではあります。また、院の叡慮えいりょ
は、かるがると、彼らの暴力や示威などで、動くものでないことを、このとき、しかと、思い知らせておくべきでしょう」 と、あくまでも、院の尊厳を、中心に、論じた。 法皇のお気持も、そこにあることを、信西は、覚さと
っていたからである。 殿上の世論よろん
も、世人の考えも、叡山に同情なく、ひそかに、清盛の行為に、共感をもっている点からも、彼は、見逃していない。 また、清盛個人の、弁護としては、 「彼のしたことは、一見、乱暴に見えるが、彼は、当日も院へ伺候して、諸卿の面前で、正しく、強訴ごうそ
取りしずめの一任を受けて赴いた者である。── 決して、令に反そむ
いて、いたずらに、職権を振舞ふるま
った者とはいえません。もじ、彼を極罰しするならば、清盛に、大事を一任した列座の諸卿も、ひとしく、冠かん
を解と いて、罪に服さねばなりますまい」
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