「安芸守清盛の身は、極刑に処して、よろしく、世人に神輿の畏
れを知らしめ、またもって、叡山の憤りを宥なだ
むべきである」 集議の初めから、こう主張していたのは、左大臣藤原頼長であった。 頼長は、世に 「悪あく
左府さふ 」 と異名をとっているほどで、公卿中でも、こわもてされている男である。 いかにも貴人らしい威風と美貌びぼう
を備えているが、一種、狷介けんかい
な気骨と、人を人とも思わない驕慢きょうまん
をもって、だれにでも臨むのが、癖である。政務の上でも、気に食わないことがあると、朝廷でも、院でも、所かまわず、大声を出して、しかりとばすので、彼を恐れない者はない。 その悪左府の頼長が、終始、 「──
清盛、斬き るべし」 と、極刑説を、いいはって、やまないのである。
彼はまた、学才に長た
けていた。漢書や経典にくわしく、雄弁で」あったから、その言うところには、反駁はんばく
の仕手がない。 「叡山の暴状は、今に始まった事ではないが、それと、清盛の罪科とを、スリ替えてすむものではあるまい。── 神輿に矢を射たは、とりも直さず、皇祖の尊霊に、唾つば
したも同じ大不敬というべきである。神威、仏罰を恐れぬ、不逞ふてい
な行為というしかない。かかる大悪人を許しては、やがて、乱の因もと
にもなる。── さしあたって、叡山の大衆も、だまって、退いてはおるまい。乱を好む人びとは知らず、頼長は、国家の安穏のためにも、清盛の助命沙汰ざた
などには、かまえて賛同いたしかねる」 と、いうのだった。 これに対して、まれまれに、異論めいた口をもらした公卿もあったが、頼長は、あか児の手をねじるように、論破して、 「何か、御辺ごへん
のいわれるところは、理論のすじが、よく通っていないが、もう一度、仰せられい。もう一ぺん、弁じてみられい」 と、意地悪く、粘りついて、完膚なきまで、やりこめるので、ついには、異議を立てる者もなかった。 法皇は、そんなとき、しきりに、ぎょろ、ぎょろと、おん眼まなこ
を、諸卿の面おもて にそそがれた。内心の御焦慮を、それにほのめかされているのだが、何しろ、頼長の存在は、余りに、大きすぎた。 |