〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-] 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
九 重 の 巻

2013/02/16 (土)  悪 左 府 (一)

叡山えいざん の大衆を前において、日吉ひえ 山王さんのう の神輿に矢を立てた男がある ──)
これはたしかに世紀的な事件であった、一個の人間の行為で、また市井しせい にあった一事件に過ぎないが、これほど、大きく、世上を揺すぶった問題もない。
言い換えれば、清盛の一矢は、世人のもう をも、射ていたのである。
ときには、天子すら、地にくだ って、拝をなすものへ ── という、神輿に対する絶対視を、 まされて、
(やりも、やったり!)
と、人びとは、舌を巻いて、このことを、あらしのように、うわさしあった。
(やったのは、スガ目の刑部卿ぎょうぶきょう どののせがれ、安芸守清盛どのということだ。えらいことをなされたものじゃ)
その無法無謀にあきれながら、実は、心ひそかに、愉快に思っているふうが、たれの口ぶりにも、おおい得ない。
沈黙を守ってはいるが、こんどばかりは、あの武者ぎらいの、公卿たちからして、清盛を、そう悪くはいわなかった。
おかしいのは、叡山えいざん 以外の、園城寺おんじょうじ 派だの、南都の興福寺こうふくじ だの、同類の法師仲間でさえ、
神輿みこし りとや、振り損ね、かし ぎ神輿のつまづき舞ひ、舞ひ舞ひしてこそ退 いたりけれ ──”
と、うた いはやしているともいう。
すべて叡山への反感でないものはない。
(叡山は、大挙して、ふたたび入洛じゅらく するだろうか。安芸守どのの御処置は、どうつけられるか?)
世人の注意はやがてその一点にそそがれた。
鳥羽院では、毎日のように、このための評議が行われ、叡山側の抗議も、もちろん、一再ではない。
激越な文辞をもって、新たな要求が、院司を経て、奉聞されていた。
法皇も、この事件には、お心を寒うされたにちがいない。しかし、清盛をお憎しみになるような、み気色はなかった。よ、いって、
(よく、いたした)
とも、仰っしゃりははしない。複雑な御胸中なのであろう。
諸卿の集議の席では、いつも、濃いおんまゆ を重げにひそめられ、熱心に諸官のいうことを、聴きとっておいでになった。
列座の顔ぶれは、
摂政関白忠通、左大臣頼長、右大臣徳大寺実行、内大臣久我雅定、少納言藤原信西しんぜい 入道、院司権大納言為房、権中納言家成、そのほか、参議にいたるまで、重職の朝臣で、見えない顔はない。
この中で、ひとり忠通の関白は、数年動いていないが、左右大臣、内府などの官職は、つねに更迭されて、目まぐるしいほど、変わっていた。
朝令で、改組されたと思うと、また、院宣によって、就官したり、解職されたろしている。
けれど、今は、先帝の崇徳は退位されて新院に退かれ、今上きんじょう はまだ御幼少なので、朝廷はあり、摂政もいるが、実際の政権は、法皇御一人にあったといってよい。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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