(叡山
の大衆を前において、日吉ひえ
山王さんのう の神輿に矢を立てた男がある
──) これはたしかに世紀的な事件であった、一個の人間の行為で、また市井しせい
にあった一事件に過ぎないが、これほど、大きく、世上を揺すぶった問題もない。 言い換えれば、清盛の一矢は、世人の蒙もう
をも、射ていたのである。 ときには、天子すら、地に降くだ
って、拝をなすものへ ── という、神輿に対する絶対視を、醒さ
まされて、 (やりも、やったり!) と、人びとは、舌を巻いて、このことを、あらしのように、うわさしあった。 (やったのは、スガ目の刑部卿ぎょうぶきょう
どののせがれ、安芸守清盛どのということだ。えらいことをなされたものじゃ) その無法無謀にあきれながら、実は、心ひそかに、愉快に思っているふうが、たれの口ぶりにも、おおい得ない。 沈黙を守ってはいるが、こんどばかりは、あの武者ぎらいの、公卿たちからして、清盛を、そう悪くはいわなかった。 おかしいのは、叡山えいざん
以外の、園城寺おんじょうじ 派だの、南都の興福寺こうふくじ
だの、同類の法師仲間でさえ、 “神輿みこし
振ぶ りとや、振り損ね、傾かし
ぎ神輿のつまづき舞ひ、舞ひ舞ひしてこそ退の
いたりけれ ──” と、謡うた
いはやしているともいう。 すべて叡山への反感でないものはない。 (叡山は、大挙して、ふたたび入洛じゅらく
するだろうか。安芸守どのの御処置は、どうつけられるか?) 世人の注意はやがてその一点にそそがれた。 鳥羽院では、毎日のように、このための評議が行われ、叡山側の抗議も、もちろん、一再ではない。 激越な文辞をもって、新たな要求が、院司を経て、奉聞されていた。 法皇も、この事件には、お心を寒うされたにちがいない。しかし、清盛をお憎しみになるような、み気色はなかった。よ、いって、 (よく、いたした) とも、仰っしゃりははしない。複雑な御胸中なのであろう。 諸卿の集議の席では、いつも、濃いおん眉まゆ
を重げにひそめられ、熱心に諸官のいうことを、聴きとっておいでになった。 列座の顔ぶれは、 摂政関白忠通、左大臣頼長、右大臣徳大寺実行、内大臣久我雅定、少納言藤原信西しんぜい
入道、院司権大納言為房、権中納言家成、そのほか、参議にいたるまで、重職の朝臣で、見えない顔はない。 この中で、ひとり忠通の関白は、数年動いていないが、左右大臣、内府などの官職は、つねに更迭されて、目まぐるしいほど、変わっていた。 朝令で、改組されたと思うと、また、院宣によって、就官したり、解職されたろしている。 けれど、今は、先帝の崇徳は退位されて新院に退かれ、今上きんじょう
はまだ御幼少なので、朝廷はあり、摂政もいるが、実際の政権は、法皇御一人にあったといってよい。 |