〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-] 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
九 重 の 巻

2013/02/15 (金) 一 投 石 (二)  

天地の生んだ一個のもの、その清盛は、大路の真ん中にあった。そしてなお、しゃがれ声を、張りつづけていた。
「なんじらの欲するものは、なんじらに与えてやろう。このに連れて来た舎弟時忠、家人平六の二人を、受け取るがいい。── ただし、二人とも、生きものだということを知っておけよ」
「・・・・・」
こう聞くと、対峙たいじ して、見すえていていた如空坊たちは、苦笑を浮かべた。苦しい妥協に来ての負け惜しみと聞いているらしい。── が、清盛は、ひと息入れて、さらに、言い放った」
「── もと は、祗園ぎおん喧嘩けんか であった。神も見よ、仏も、耳の穴をほじって聞け。理非いずれは、双方、酒のうえのこと、喧嘩は両成敗と、昔からのなら わしにも聞く。── 清盛の愛する二名の家人けにん を、忍んで、叡山へ渡すからには、叡山のあるじ たる、日吉ひえ 山王の神輿へも、安芸守清盛が、物申さでは、さし かれぬ」
「あはははっ。・・・・あははは。やよ見ろ、安芸守清盛は、気が狂うたのだ。── 気が狂うて、来たとみゆるぞ」
「だまって聞け。法師どもっ。」
清盛は、声を張るのに、満身を揺すった。まるで、熱鉄の上の水玉のように、ほお 、あご、耳のうらから、汗の玉が、散るのだった。
「狂気か、正気かは、気をしずめて、なお、おれの言う事を聞いてからにしろ。
── 日吉山王の神輿も聞けよかし。およそ、神だろうが、仏だろうが、人を、悩ませ、惑わせ、苦しませる神や仏やある。あらば外道げどう の用具に相違ない。叡山の凶徒にかつがれ、白昼の大道を押し歩く、なんじ、日吉山王の神輿こそ、 しからね。幾世、人をくら まし、迷わせて来つらんも、この清盛を、たぶらかすことはできぬぞ。── 喧嘩は両成敗ぞ。覚悟せよ、邪神の輿っ」
あ? ── と、うろたえの表情が、無数の面上をかすめたとき、もう清盛は、弓に矢をつがえ、キ、キ、キ・・・・と、満をしぼって、神輿へ、やじり を向けていた。
横川ノ実相坊は、おどりあがって、頭から火を出すような、大喝だいかつ を放った。
「あな、無法者っ、罰あたりめっ。──血へど吐いて、死ぬも知らぬか」
「血へど? 吐いてみたい!」
びゅんと、一線のつる りが、虚空こくう に、聞こえたとき。── 矢は、サッと、風を切り、神輿の真ん中に、突き刺さっていた。
── とたんに、狂せるような諸声もろごえ が、二千余人の荒法師の口から揚がった。白丁の神人たちも、とび上がって、何やら口々に言った。 くが如き声、怒る声、いた む声、戸まどいの声、放心の声、悲しむ声、 える獣のような声。声、声、声の一つ一つに生きものの感情がどぎつくほろばしっていた。
古来。
どんなことがあっても、神輿に、矢の当たったため しはない。また、神輿の大威徳をおか して、矢を向けるばかもいないが ── もしあれば、矢は地に落ち、射手は立ち所に、血ヘドを吐いて、即死する。
── こう、かたく、信じられていた。
ところが、矢は神輿に刺さった。
清盛は、血ヘドも吐かず、なお、立っている。
迷信は、白日はくじつ に破れた。それは迷信利用の中に、生活の規模と、伝統の特権をもっていた山門大衆が、赤裸にされたことでもあった。彼らは、狼狽ろうばい と、おどろきの底へ、たたきこまれた。
しかし、祈祷きとう のきかないことを、たれよりも知っていたのは、祈祷する者たちでもあった。── 大衆を指揮する大法師たちは、大衆の幻滅と狼狽を、すぐ彼らの怒気へ誘って、
「やあ、稀代な れ者っ。そこな外道を、取り逃がすな」
と、暴力を、けしかけた。
うわっ・・・・と、襲いかかる荒法師の長柄ながえ の光や、土ほこりや、神人たちの棒の雨の中に、清盛の姿は、たちまちおお いつつまれて、見えもしなくなった。
乱闘の渦は、別な所にも起こった。同じように、時忠、平六の二人も、取り囲まれてしまったとみえる。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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