〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-] 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
九 重 の 巻

2013/02/15 (金) 一 投 石 (一)  

「院には、なんの誠意も見られぬ。諸願の儀は、二件とも、突っ返された。加賀白山の一ヵ条だに、裁可ある見込みはない。このうえは、神輿を奉じて、法皇のもう を、ひらき奉れ」
いま、鳥羽院から帰って来た横川よかわ ノ実相坊や止観院ノ如空坊は、ここに交渉の帰結を待っていた二千余の大衆に向かって、感神院の石段の上から、交渉の決裂を、揚言した。
大衆は、憤激して、
「行けっ。 らしめろ」
と、すぐ身支度にかかり、神輿の動座にむらがった。
動座に先だって、百星にまがう燈明がともされた。祗園の林も煙るばかりに護摩ごま をたく。梵音ぼんおん磬音けいおん仏楽ぶつがく は、出陣の鉦鼓しょうこ に似ていた。何か、ものすさまじい呪気じゅき がただよう。やがて、白丁はくちょう を着た人びとの肩に、にな い出された日吉ひえ 山王の神輿は、金色さんらんと、 を照り返し、大衆のとき の声に乗って、ゆら、ゆら、ふもとの大路へむかって進んで来た。
と、。突然。
「囚徒ども。待てっ」
と、どなって、神輿の行く前に、立ちふさがった一個の男がある。
なんのかざりもない、くろがね のかぶとをかぶり、荒目の具足を着、わらじわはき、手に強弓ごうきゅう をたずさえていた。
すこし、うしろに、彼の義弟時忠と、平六の二人が、無手ではあるが、まるで、仮面めん のような、硬直した顔をそろえて、突っ立っていた。
「── 鳥羽院に仕える安芸守平ノ清盛とは、おれだ。叡山えいざん に人間がいるならば、これへ出て、人間の言葉を聞け、凶徒どもの中には、物の分かる人間もいるだろうに」
何か、真っ黒な、等身大の阿修羅あしゅら の彫刻でも口をあいて、怒鳴っているように、その姿は見えた。
この不敵な男の態度と、言葉に、山法師の大群は、勃然ぼつぜん と、怒りを逆巻いて、
「すわ! 清盛ぞ」
ほうむ れ。血まつりに」
と、たけ った。
大法師の如空坊、実相坊、乗円坊などは、さすがに、あわてもしなかった。ひきいる大衆を制止して、こうなだめた。
「いや、いわせてみろ、何を ざくか。── 手を出すな。まず、いわせてみるがいい」
その間に、神人じしん たちの、白い群は、
「神輿をけが すな。神輿を」 と、うしろへ、うしりへと、列を、押しもどした。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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