〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-] 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
九 重 の 巻

2013/02/15 (金)  じん (二)  

清盛には、彼らのその色めきが、何を語っているものか、よく分かった。彼は、汗だらけな顔を、左右の、甲冑かっちゅう の陣列へ向けて、にこにこ笑って通った。大きな耳までは笑っているように見える。そのあとについて行く時忠、平六のしおれ方とは、余りに、対蹠的たいしょてき に見えた。
御坪おつぼ召次めしつぎ の廊に、ひかえて待て」
と、二人を残して、清盛は、院司所いんしどころ の中門へ入った。院における彼の資格は “近衛ノ将曹しょうそう ” だったから、そこまでは、許しも待たず、通れるのである。
院司、別当べっとう などをはじめ、公卿たちは、嵐の直前にさらされたような顔を集めていた。れん をへだてて、法皇のお姿も仰がれた。清盛は、自己の思うところを、率直に、上申に出たものらしい。しばらく、庭上にひざまずいていた。
奏聞の結果、清盛の願いは、聞き届けられた。彼の申し出は、
(叡山の真の目的は、加賀白山の荘園にありましょうが、火を点じた者は、自分の家人けにん でした。責任は、清盛が負うべきです。何とぞ、対叡山の始末は、わたくし一身に、おまかせ願いとう存じます)
と、言うにあった。
どうして、大衆を、 きつけて、ことなく神輿を山へ引きあげさすか。その手段は如何いか に。何ぞ、条件でも与えるのか。── などとただ したくも、事態は、焦眉しょうび の急である。ただ恟々きょうきょう たる公卿たちが、質問を出す余裕もない。
公卿たちは、ただ、口をそろえて、清盛に、念を押した。くどいほど、おそれて、言った。
「安芸。── 大事ないか。さような、ひとりのみ込みの、掛け合いに向かって、よろしいのか」
「これ以上、院の御難儀を、求めることはあるまいの」
「過ちに、過ちを、重ねるなよ。彼らの怒りに、油をそそぐまいぞ。構えて、堪忍を、守りとして臨めよ」
法皇の御聴許だけが、ただ一つ、清盛の得た強味なのである。彼は、ニコとして、殿上へ礼をして、 った。
「ご安心ください。かならず、一命にかけて、御守護の任を、全うして御覧に入れます」

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
Next