〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-] 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
九 重 の 巻

2013/02/14 (木)  じん (一)  

いつも、大衆だいしゅ の先には、必ず姿を見る叡山えいざん 名うての大法師 ──止観しかんいん 院ノ如空坊、横川よかわ ノ実相坊、西塔ノ乗円坊などは、憤然として、いま、鳥羽院の内から退 がって来た。
「さては、使僧たちの誓願は、却下され、交渉は、決裂したな」
人びとは、大法師たちの、仏頂面ぶっちょうづら を見て、そう覚った。
三人の法師は、院の随身所に預けれおいた大薙刀なぎなた を受け取ると、それを、りゅうと小わきに持ち直し、待っていた堂衆十二名を、うしろの従えて、あだかも、対等国の使いが、手切れとなって、引き揚げるような、こわ ばった表情で、いま、門を出て来たのである。
かれらのまゆ には、あきらかに、
(── 出直して来るぞよ。手をやくな)
と、威嚇いかく のうす笑いも、ひそんでいる。
神輿を、持ち込む前には、一応、誓願の使者よ称するものを、こうして向けて来るのが、いつもの手順だった。
しかし、事態が、ここまで切迫しては、朝廷の場合でも、院でも、面目上、かれらの威嚇に、屈するわけにはゆかない。
誓願は却下。妥協は、破れると、きまっている。
彼らは、他年の経験から、そういう交渉にも、それからの手段にも、熟練していた。いつもやる常套じょうとうく 手法として、時を移さず、待機している数千の大衆が、神輿を奉じて、洛中らくちゅう せてくる。途中、法師たちは、いかに自分らの要求が正当で、朝廷や院の処置が不行き届きであるかを演舌しつつ、洛内をもに歩いた後、目的の門に、殺到するのだ。
その場合、武者は、陣列を組んで、備えるが、これを、武力で阻むことは出来ない。案山子かがし の弓矢なのである。
押し寄せた大衆は、強訴ごうそ の正当を、ここでも叫び、政府の応ぜぬ限り、座り込む。そして、 “御座ぎょざ え” といって、果ては、神輿を置いて、立ち去ってしまう。
この神輿は、何人なんびと でも、絶対に、手を触れることは出来ない。── が、たいがい、これくらいな目にあうと、ついに、朝廷も院も、折れるほかなかった。これまでにも、一たんの宣旨せんじ を変更し、あした の政令を、夕べにひっこめた例は、数知れないほどなのである。
この日の、叡山の要求も、初めは、
(安芸守清盛の義弟、平ノ時忠と、朗従平六の身を引き渡す事 ──)
であったものが、
(あわせて、さきに上申中の、加賀白山の廃寺の荘園しょうえん を、叡山の領有として、御裁可ありたきこと)
という懸案の難問題を、抱き合わせて、来ているのだった。
これは、法皇も、見抜かれていたので、断固として、お聞き入れにならない。── 夜明けごろから、摂政関白忠通、左大臣頼長、右大臣雅定など、院中の協議と往来はものものしい空気だったが、帰するところ、叡山は、祇園ぎおん まつ りの小事件をとらえて、実は、荘園の獲得を計っているものと られるので、
(── 捨ておけ)
と、法皇の宸怒しんど は、めずらしくお強いのであった。
「いよいよ、大衆の襲来か」
武者たちは、悲壮だった。
つる を放てぬ矢を負い、抜くを得ない太刀たち をはき、かぶとの鉢金はちがね を、炎日に照りつけられて、ただ、具足の列を、並べあっているしかないのだ。── もし、衆徒の方から、狼藉ろうぜき でも働けばだが、神輿をかつぎこまれるだけでは、地に拝して、彼らのなすがままを、見ているほかはない。
「おお、安芸どのが見えられた。安芸どのが・・・・」
おりもおり、清盛の来たのを見て、人びとは、何とはなく、どよめいた。口に出せない奇妙な鬱屈うっくつ を、清盛のいつも屈託のない顔に、吐け口を見つけたのである。声々こえごえ に、何か言って、いささかな色めきを発したものだった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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