〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-] 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
九 重 の 巻

2013/02/13 (水) ほたる (三)  

「せっかくの夜を・・・・」 と、清盛はつぶやいて、笛を収めた有子と、父のおもて を見て、自然に笑った。 「── ついに、来たそうですよ。例の、おどろしき者どもが」
さすがに、気をさまして、忠盛は、ちょっと居ずまいを直した。かくべつ、驚いた容子ようす でもない。常のごとき、静かな、スガ目である。
「来たか。また、風除かぜよ けに、立たねばならんなあ。── 南都北嶺なんとほくれい の厄介ものは、夏に夕立、秋に暴風雨あらし があるようなものだ。清盛、こんどは、この屋普請も、木っ葉みじんに、飛ぶかもしれぬぞ」
「覚悟はしています。天の仕業なら、従えもしますが、人間の所業なので、このたびは、あやま れません。屋敷ぐらい建て直せば、いいのですから」
「ははは。そういう心底を、忠盛も、止めはしない。屋敷ぐらいはと申すが、わしは、子供ひとりぐらいはとまで、ほぞ をかためておるよ。──おまえがたおれても、経盛もいる、孫の重盛もいる。心丈夫に持て」
「お案じくださいますな。ただ、山法師どもが、ここへ来ればと願っていますが、万一にも、一院へ押しかけて参らすようですと、まことに、おそれおおいがと、案じておりまする」
「いや、上皇におかせられても、くせになる、このたびは、かまいつけるなと、充分、お心構えのように拝せられる。── さきに、加賀白山の寺領を、延暦寺に加封かふう されたいと申すわがままな訴えも、御裁可はなく、にぎりつぶしておいでになる」
「されば、叡山の狙うところは、その御裁可にもあると思われます。──祇園ぎおん まつ りで、時忠が、法師を撲ったなどは、ありがちな喧嘩けんか ですし、何も、神輿をかつぎ出すほどな問題でも、あるはずはありません」
廊の端にすわっていた時忠と平六は、その言葉が終わるのを待って、身をずり出した。
「いえ! 兄者人、祗園の祭りで、叡山の荒法師ども七、八人を、したたかに、こら らしめたのは、ほんとうです。連れていた平六の、些細ささいあやま ちをとがめ、土下座しろの、主人はたれだの、果ては、武者にとって、聞き捨てにならない悪罵あくば を吐き散らしましたから、堪忍しきれずに、やりました。── ですから、時忠の身さえ、彼らに、与えてやれば、大事に至らずに、すむわけです。・・・・自分が祇園へ、名乗って出ます。どうか、おゆるしくださいまし」
「待て、待て。──時忠っ、どこへ行く。ばかっ」
「・・・・でも、わたくし一名の為に、大事を引き起こしては」
「まかせろと、言ってあるだろう。いちど、おれに任したものを、じたばた、何をわめくか。──平六」
「はいっ・・・・
「そちもだぞ。よしと、清盛が、のみこんでおるのではないか。いや、父上もはら をともにしてくださるのだ。よいか。・・・・時忠やそちを、人柱に立てて、難を逃れようとするほどなら、覚悟のなんのと、いうこともない。話は、すこし違うのだ。この大難を、おれは、まっこうに、身に引き受けようと、思うのだ。おれの耳には、やるべし、やってくれという無数の声が、わんわん市場のつじ みたいに聞こえて来る。・・・・かたがた、おれ一個の運命だけでなく、いつまでも地下人ちげびと 扱いにされている武者全体の運開きにも、伸るか反るか、大きく けて、考えているのだ。めったに、立ち騒いで、せっかくの機会を、おれに、はずさせるなよ」
ここは、沈痛な静けさだったが、郎党たちはすでに、清盛の命を、待つまでもないこととして、一瞬に武装し、屋敷の内外を、ひしひし、固めあっている気配である。
「父上は、まだおられますか」
おりふし、従者六、七騎をひきつれて、今出川から、経盛が、迎えに来た。
それをしおに、忠盛は、腰を上げた。
「いや、よい涼夜りょうや だった。・・・・だが、清盛よ。万一ということもある。夜明けぬうちに、女子こどもは、竹田の安楽寿院のお庭へでも、移さしておいてはdぷだな」
そんな注意を与えながら、忠盛はゆったりと、駒寄こまよ せへ出て、馬上に移った。
有子は、輿こし に乗った。── それを、見てから、清盛も、馬にまたがり、弟の経盛と並んで、
「途中まで、お送りいたしましょう」
と、門外へ、ぞろぞろ出た。
螢が、馬のくら にも、たもとにも、たかった。音羽川の水辺には、渦をなした螢くずが、戦うごとく、風に巻かれている。
清盛の郎党も加えて、二十余名。五条の橋のほとりまで来た。ふりかえると、祗陀林一帯の大篝りは、つい目と鼻の先でしかない。
それは人の闇夜を美しく染めてくれる螢火とちがって、あすの日を威嚇いかく する炎々たる人間自身の劫火ごうか だった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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