「せっかくの夜を・・・・」
と、清盛はつぶやいて、笛を収めた有子と、父の面
を見て、自然に笑った。 「── ついに、来たそうですよ。例の、おどろしき者どもが」 さすがに、気をさまして、忠盛は、ちょっと居ずまいを直した。かくべつ、驚いた容子ようす
でもない。常のごとき、静かな、スガ目である。 「来たか。また、風除かぜよ
けに、立たねばならんなあ。── 南都北嶺なんとほくれい
の厄介ものは、夏に夕立、秋に暴風雨あらし
があるようなものだ。清盛、こんどは、この屋普請も、木っ葉みじんに、飛ぶかもしれぬぞ」 「覚悟はしています。天の仕業なら、従えもしますが、人間の所業なので、このたびは、謝あやま
れません。屋敷ぐらい建て直せば、いいのですから」 「ははは。そういう心底を、忠盛も、止めはしない。屋敷ぐらいはと申すが、わしは、子供ひとりぐらいはとまで、臍ほぞ
をかためておるよ。──おまえがたおれても、経盛もいる、孫の重盛もいる。心丈夫に持て」 「お案じくださいますな。ただ、山法師どもが、ここへ来ればと願っていますが、万一にも、一院へ押しかけて参らすようですと、まことに、おそれおおいがと、案じておりまする」 「いや、上皇におかせられても、くせになる、このたびは、かまいつけるなと、充分、お心構えのように拝せられる。──
さきに、加賀白山の寺領を、延暦寺に加封かふう
されたいと申すわがままな訴えも、御裁可はなく、にぎりつぶしておいでになる」 「されば、叡山の狙うところは、その御裁可にもあると思われます。──祇園ぎおん
祭まつ りで、時忠が、法師を撲ったなどは、ありがちな喧嘩けんか
ですし、何も、神輿をかつぎ出すほどな問題でも、あるはずはありません」 廊の端にすわっていた時忠と平六は、その言葉が終わるのを待って、身をずり出した。 「いえ!
兄者人、祗園の祭りで、叡山の荒法師ども七、八人を、したたかに、懲こら
らしめたのは、ほんとうです。連れていた平六の、些細ささい
な過あやま ちをとがめ、土下座しろの、主人はたれだの、果ては、武者にとって、聞き捨てにならない悪罵あくば
を吐き散らしましたから、堪忍しきれずに、やりました。── ですから、時忠の身さえ、彼らに、与えてやれば、大事に至らずに、すむわけです。・・・・自分が祇園へ、名乗って出ます。どうか、おゆるしくださいまし」 「待て、待て。──時忠っ、どこへ行く。ばかっ」 「・・・・でも、わたくし一名の為に、大事を引き起こしては」 「まかせろと、言ってあるだろう。いちど、おれに任したものを、じたばた、何をわめくか。──平六」 「はいっ・・・・ 「そちもだぞ。よしと、清盛が、のみこんでおるのではないか。いや、父上も肚はら
をともにしてくださるのだ。よいか。・・・・時忠やそちを、人柱に立てて、難を逃れようとするほどなら、覚悟のなんのと、いうこともない。話は、すこし違うのだ。この大難を、おれは、まっこうに、身に引き受けようと、思うのだ。おれの耳には、やるべし、やってくれという無数の声が、わんわん市場の辻つじ
みたいに聞こえて来る。・・・・かたがた、おれ一個の運命だけでなく、いつまでも地下人ちげびと
扱いにされている武者全体の運開きにも、伸るか反るか、大きく賭か
けて、考えているのだ。めったに、立ち騒いで、せっかくの機会を、おれに、はずさせるなよ」 ここは、沈痛な静けさだったが、郎党たちはすでに、清盛の命を、待つまでもないこととして、一瞬に武装し、屋敷の内外を、ひしひし、固めあっている気配である。 「父上は、まだおられますか」 おりふし、従者六、七騎をひきつれて、今出川から、経盛が、迎えに来た。 それをしおに、忠盛は、腰を上げた。 「いや、よい涼夜りょうや
だった。・・・・だが、清盛よ。万一ということもある。夜明けぬうちに、女子こどもは、竹田の安楽寿院のお庭へでも、移さしておいてはdぷだな」 そんな注意を与えながら、忠盛はゆったりと、駒寄こまよ
せへ出て、馬上に移った。 有子は、輿こし
に乗った。── それを、見てから、清盛も、馬にまたがり、弟の経盛と並んで、 「途中まで、お送りいたしましょう」 と、門外へ、ぞろぞろ出た。 螢が、馬の鞍くら
にも、たもとにも、たかった。音羽川の水辺には、渦をなした螢くずが、戦うごとく、風に巻かれている。 清盛の郎党も加えて、二十余名。五条の橋のほとりまで来た。ふりかえると、祗陀林一帯の大篝りは、つい目と鼻の先でしかない。 それは人の闇夜を美しく染めてくれる螢火とちがって、あすの日を威嚇いかく
する炎々たる人間自身の劫火ごうか
だった。 |