〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-] 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
九 重 の 巻

2013/02/13 (水) ほたる (二)  

若いせいもある。めずらしいのである。が、清盛は、性格的に建築好きであった。
六波羅ろくはら に、新居を建てて、、移ってからも、のべつ工匠たくみ を入れて、どこかいじっていないと、気がすまない。
敷地の近くを、清水寺の山から落ちてくる音羽川が、流れている。妻の実家さと の、水薬師の泉殿を思い出して、
「あの流れを、屋敷の内へ、引きたいものだ」
と、いうと、妻の時子も、
「ええ、あの流れが、屋敷の内にあれば、わたくしはまた、滋子しげこ を相手に糸を染めて、織娘おりこ を雇い、まだ世間にない色々な色地や模様を考えて、あなたにも、子たちにも、珍しい衣装を着せてあげましょうもの・・・・」 と、言った。
時子は、少女の頃、宮中の更衣こうい に、しばらく、仕えていたこともあり、縫殿ぬいどの では、たえず貴人の衣服を手がけていたので、刺繍ししゅう や、染色には、興味を持ち、自分でも、手工に自信があるらしかった。
「それはいい。・・・・そうだ、そなたが、滋子と二人で、泉殿の下で、糸を染めていたあの日の姿を、この新しい家でも、見たいな」
清盛はすぐその気になって、さっそく、土木の小工事にかからせた。── それが、夏になって、出来上がったのである。
時子も、今は、三人の母だし、思いつきは言ってみても、なかなか実際には、家庭手芸などしているすきはなかったが、そこは幸せな良人おっと で、清盛は、とうに、そんな約束は忘れ顔だった。
「いいなあ。水を引いたので、水に引かれて、ほたる も飛ぶぞ。・・・・そうだ、いちど、父上にも、見ていただこう」
「その夜、ちょうど、神輿の大衆が、入洛じゅらく した晩 ── 忠盛と、後添のちぞ えの有子は、二人連れで、この息子の新居に、招かれていたのである。
有子と、時子とは、姉妹のようだった。
孫たちをなかに、そう二人が、むつまじいのを見て、忠盛は、うれしかったし、また、かつての、ずぼら息子が、院の御信任の得て、安芸守あきのかみ に任官し、こうして、屋敷の一つも、建てたかと思うと、そぞろ、酒のときにも、回顧の情が伴った。
「舎弟の経盛つねもり も、お連れになればようございましたな。── あれがいれば、笛でも吹かせましたのに」
清盛も、微酔を楽しみ、何か、今が人生の、いちばんいい時にあるように思えた。
「笛がお好きですか ──」 と、義母の有子が言った。
「── もし、ここにあるならば、何か、わたくしが吹きましょうか」
「それは、願うてもないこと・・・・時子、笛を出せ」
水辺の螢を見ながら、酒をふくみ、有子の笛を聞いているうちに、忠盛は、欄にもたれて、居眠りしだした。
すると、その眠りを、襲うように、たれか、表門から駒寄こまよ せのあたりへ駆け込んできた物音である。そしてその者のわめきと一緒に、
「すわ・・・・」 と、おく るがして、家人けにん 部屋の郎党がみな、総立ちとなったらしい。
兄者人あにじゃびと っ。たいへんですっ」
時子の弟の時忠は、おどり込むようにここへ来た。叡山の大衆が、強訴に入洛したと、早口に、告げるのだった。
時忠のうしろには、郎党の平六も来て、うずくまっていた。ふたりとも、蒼白そうはく な顔色に、責任感を、こわ ばらしていた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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