〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-] 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
九 重 の 巻

2013/02/13 (水) ほたる (一)  

忠盛ただもり清盛きよもり 父子などは、とるに足らん者ではある、近ごろ、武者どもの、振舞ふるま いは、ひとえに、鳥羽院の虎威こい を、借るもの。──今のうちに、かれら雑草の根をひン抜いておかねば、後のわざわ いというものだ」
「いや、一院の御意中にも、叡山えいざん に対し、近ごろ、冷やかな、御態度が見らるる」
「おお、加賀白山の、荘園しょうえん の問題か」
「それよ。いまもって、あの訴状にも、ご裁可がない」
「加賀白山の荘園は、当然、わが叡山の支配に加えられてよいはずのもの。──それを、先住の僧侶そうりょ が絶えて、廃寺になったものと見なし、公没せらるる御意志なのだ」
「一院、おんみずから、けしからぬ略奪りゃくだつ を、たくら まるるわよ」
「何せい、一院へ せようぞ。── 鳥羽院へ」
「おうっ、院の側近ばらにも、まれには、神輿を拝ませておかねば、くせになる」
久安三年の夏、六月。── もう、ひる さがり。
日吉ひえ 山王の御輿と神人じにん をまン中に、数千の山法師は、夕立雲のように、東塔とうとう えにあらわれ、雲母坂きらざか を下りて来た。
雲母坂で、夜に入る支度をし、たそがれ、大谷川に沿って、洛外らくがい にかかった。
宵になると、僧兵の大衆だいしゅう は、手に手に、松明たいまつ をかかげ、呪文じゅもん のように、経典の一部を怒号しながら、地を焼き、天を がして、歩いた。
「それっ、神輿みこし りが、やって来るぞ」
「戸を閉めろ、おもてへ、顔を出すなよ」
部落も、街も、台風の襲来みたいに、ばたばた、鳴りを立てて、一瞬の間に、人影一つ、見せなくなった。── まのあたりを、天魔鬼神の夜行でも過ぎて行くような恐れかただ。
天皇、百官も、地に拝伏するという ──絶対なるもの。どうして、庶民のかれらが、見てなど、いられよう。
彼らは荒壁すらない板屋の内に、子を抱えこみ、眼をとじ、耳をふさいで、電気の通過を、じっと、待った。
── が、荒法師の大衆だいしゅう は、こんなに無抵抗の途上でも、民家の些細ささい な落度に、難くせをつけ、たちまち、放火したり、時には、殺傷、略奪なども、平気でやって通った。
もとより、一山の座主ざす智識ちしき などの、本意ではないにはきまっている。けれど、大衆を組み、大衆の力を利用する以上、悪作用は、つきものである。まして、すでに仏教の戒律を無視し、それに武器を持たせ、法衣の下に、具足をよろ っている連中を、都心に放つからには、何をやったところで、それは不自然な現象ではない。
神輿は、やがて祗園ぎおん に、着いた。
祗陀林ぎだりん の感神院に、それを奉安し、衆徒は、寝ずの番を設けて、境内を守り、夜もすがら大かが りを諸所にたいて、むし暑い夜霧のうちの東山を、不気味なばかり赤くしていた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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