〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-] 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
九 重 の 巻

2013/02/13 (水) 人 間 到 る と こ ろ 人 間 あ り (三)  

「── チン 、未ダ、カクノ如キ微妙ノ法ヲ、聞クヲ得ザリキ」 (日本書記)
仏教に、初めて接した時、欽明天皇には、こう、随喜されたとある。
それは、爾後じご の朝廷も、貴族も、庶民も、かわりのない、心の革命だったには、相違ない。
国富、労力は、あげて、それからの世々を次いで、全国にわたる寺院の伽藍がらん 堂塔どうとう や、造仏、荘厳しょうごん の工芸などに、注ぎ込まれた。
当然、入唐の僧侶そうりょ は、みな大知識ちしき として、迎えられ、皇室、貴族たちの間には、いつか、僧侶自体に、仏力ぶつりき があるかのような幻覚が生まれ出した。
祭政一致の風習のある国だったので、神代に代わって盛んとなった仏教が、やがて、仏政一致を、必然にしてきた。
祈祷きとう は、政治であった。
一僧の言も、朝政をかえた。
孝謙ノ女帝に近側した、弓削ゆげの 道鏡どうきょう は、内閣をつくり、みずから太政大臣禅師の称を立てて、政務を首班した。
僧位、僧官の制もできた。勅受四位、五位、大僧正、ごん ノ何々。また、僧都そうず 、律師、法印などの階級を目がけて、俗人なみの、名利や栄達を競う風も、当然に起こった。
── が、何よりも、わざわい だったことは、寺院が、過大な財を持ったことである。
一寺の建立には、必ず、寺田の領土つく。
朝廷から、嘉賞かしょう あれば、僧綱そうごう を賜うか、荘園しょうえん の寄進である。
貴族の権家けんけ でも、争って、私寺を建て、子弟を僧にし、その僧をして、寺院勢力と、政権とを、むすぶ。
地方の、寺領には、管理の人間がいる。それが、地方の土豪や、国司、郡司まどと、円滑にゆかないのは当然で、ことに、土地政策は、乱脈な状だったので、武力なしには、土を守ってゆけなかった。
土地開墾や、土木の工や、新しい知識の活用では、当時、僧侶に及ぶ者はない。彼らは、つねに、入唐の帰朝者に接し、大陸文化の移入を怠らないからである。
中央で不遇な人材らの、地方官の退職者だのも、寺院こそは、住むべき所として、集まった。── また、皇室の連枝、時を得ない貴族も、門閥をもって、ここに臨めば、こここそは、栄達の門であり、俗界のうるささはなく、俗界にある物はなんでもあった。

ここをぞと まこと の道と 思ひしに  なほ世を渡る 橋にぞありける
解脱げだつ 上人しょうにん の歌った意味が、なるほどと、うなずかれて来るのである。
富のある所、富を守る備えがいる。備えを持てば、必然、雑多な僧外の人間 ── 坊主のかたちはしていても僧ではない ── 濫僧らんそう といわれる者が、山にあふれるほど増えた。
叡山はもう、人口の飽和点になっている。学生がくしょう 、堂衆だけでも、何千人に達し、それぞれが使っている奴僕ぬぼく稚子ちご の数も、おびただしい口数だった。奴僕は多く、地方の田領地でんりょうち から来た奴隷どれい であるが、この中には、真面目に働いて、租税のために汗を流すことを嫌って、われから流民るみん に身を落としている者だの、土地にいられない前科者なども交じっていて、奴僕風情と、一概に、生やさしく見るわけにもゆかない。
── かくして、叡山といえ、三井といえ、奈良といえ、それぞれの僧団は、いまや、従来の特権を保持することと、これほどな人間が、よく食ってゆくだけで、手いっぱいの形なのだ。
法城は、一国の権力の城と、変りはない。── ひとたび、敵と見れば、同じ、教界の僧団とも、血を流し、戦うのを辞さない。民家を焼き、食糧の道を断ち、敵の堂塔を目がけて、殺到する。
政令に、不利があれば、禁門へ せかけ、僧閥に、無礼があれば、相手を問わず、決して許さない。
その特性として、動くには、かならず、集団をもってする。集団には、また必ず、天皇、貴族、人民すべて、一 もこれにさすを許さない 「絶対なるもの」 の神輿しんよ を奉じて、出かけるのだった。
では、その絶対性とは、何なのか。
神輿は、天皇の祖霊それい であり、信仰の如来にょらい である。それを奉じる御山みやまそむ くことは、天皇自体が、祖霊にそむくことになる ── と、かれらは、言ってはばからないのである。
※連枝
つらなる枝も本は同じということから、兄弟姉妹、特に高貴の人にいう。浄土真宗では法主の一族の称。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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