「──
朕 、未ダ、カクノ如キ微妙ノ法ヲ、聞クヲ得ザリキ」
(日本書記) 仏教に、初めて接した時、欽明天皇には、こう、随喜されたとある。 それは、爾後じご
の朝廷も、貴族も、庶民も、かわりのない、心の革命だったには、相違ない。 国富、労力は、あげて、それからの世々を次いで、全国にわたる寺院の伽藍がらん
堂塔どうとう や、造仏、荘厳しょうごん
の工芸などに、注ぎ込まれた。 当然、入唐の僧侶そうりょ
は、みな大知識ちしき として、迎えられ、皇室、貴族たちの間には、いつか、僧侶自体に、仏力ぶつりき
があるかのような幻覚が生まれ出した。 祭政一致の風習のある国だったので、神代に代わって盛んとなった仏教が、やがて、仏政一致を、必然にしてきた。 祈祷きとう
は、政治であった。 一僧の言も、朝政をかえた。 孝謙ノ女帝に近側した、弓削ゆげの
道鏡どうきょう は、内閣をつくり、みずから太政大臣禅師の称を立てて、政務を首班した。 僧位、僧官の制もできた。勅受四位、五位、大僧正、権ごん
ノ何々。また、僧都そうず 、律師、法印などの階級を目がけて、俗人なみの、名利や栄達を競う風も、当然に起こった。 ──
が、何よりも、禍わざわい だったことは、寺院が、過大な財を持ったことである。 一寺の建立には、必ず、寺田の領土つく。 朝廷から、嘉賞かしょう
あれば、僧綱そうごう を賜うか、荘園しょうえん
の寄進である。 貴族の権家けんけ
でも、争って、私寺を建て、子弟を僧にし、その僧をして、寺院勢力と、政権とを、むすぶ。 地方の、寺領には、管理の人間がいる。それが、地方の土豪や、国司、郡司まどと、円滑にゆかないのは当然で、ことに、土地政策は、乱脈な状だったので、武力なしには、土を守ってゆけなかった。 土地開墾や、土木の工や、新しい知識の活用では、当時、僧侶に及ぶ者はない。彼らは、つねに、入唐の帰朝者に接し、大陸文化の移入を怠らないからである。 中央で不遇な人材らの、地方官の退職者だのも、寺院こそは、住むべき所として、集まった。──
また、皇室の連枝、時を得ない貴族も、門閥をもって、ここに臨めば、こここそは、栄達の門であり、俗界のうるささはなく、俗界にある物はなんでもあった。 |